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私はこうしてトラウマを乗り越えた。

     《第一章》


もう、何十年も前、あるとき、あることに気づいた。それは、以下の3点、

①自分のルックスが客観的に見て『かなり弱そう』(心身ともに) ということ。

②本当に強い(心身ともに)人は、自分のような弱そうな者に対しては優しく接するということ。

③自分をいじめてくる人は、例外なく自分より強い人には何も言えないということ。

以上三点に気づいたおかげで、つまり自分を外側から客観視したおかげで、私のような、見るからに「弱そうな人間」をいじめてくる人間が、どういう人間か?という分析に非常に役立った。

とてもツラいことだが、自分で自分を突きはなして、なるべく他者の視線で鏡の中の自分を直視してみる…目はくぼみ、頬はこけ、気弱な視線はオドオドおよいでいる…

表情は今にも死にそうで、どんな侮辱を受けても、悲しそうに押し黙ってうつむいてしまいそうだ。

首も、腕も、足も貧弱で、小学生にチョップされただけでも骨折しそうである。

「こんな、か弱い人間をいじめるなんて、普通の人間なら可哀想でとてもできない」と自分のことながらしみじみと思う。


そこで、一つの《仮説》を立てた。


こんな弱々しい人間をみて、いじめようなどという心を起こすのは、


《私のような弱々しい相手にしか攻撃できないほど、臆病で気の弱いヤツなのではないか?》


おのれよりも強い相手には『なにも言えない』つまり、下品な言い方をすれば完全なる


《ちんちん無し》ではないか?



という《仮説》である。


そんな時、この《仮説》をあと押しするような東洋の英知の言葉に出会った。


《畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる》



これは仏教哲学書に見つけた言葉で、生きとし生けるものの特質や状態を深く洞察し、十種類に分類したものの一つに「畜生界」という生命状態があるというのだ!

この「畜生界」は、その名のとおり、人間でありながら動物的な状態で、食う・寝る・ヤる、という「本能」を中心に生きているので、信念、理念、哲学、といった、人間としての高度な知的営為とは無縁であるそうだ。

理念がないので、「畜生界」の生命状態で生きている人間は、日々、様々な選択をするときの基準が、


  善いか、悪いか?


ではなく、

 

  損か、得か?


という【利害】や、

 

  怖いか、怖くないか?


という【本能】が基準になるそうだ。


だからこそ、


《畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる》


という行動様式にならざるを得ないわけだ。

たしかに、畜生である野良犬などをみれば分かりやすい。こちらが逃げれば追いかけてくるが、こちらが追いかけると逃げてしまう。

私はこの言葉に触れたとき、ひょっとして…私のような弱々しい者をいじめてくる連中って、「畜生界」かな?と心によぎった。

《気が弱い臆病者》だからこそ、弱々しい者を選んで『あっ、コイツなら、なにやっても大丈夫そうじゃん』と無意識に判断し、逃げる者を追ってしまう野良犬よろしくいじめてくるのでは?


ならば、ならば、ならば….


こちらが強く出れば、追えば逃げてしまう野良犬のようにおびえるのではないか?


信念を持っている人間なら、相手が誰であろうが、相手がどんなに強く出てこようが、『善いものは善い。悪いものは悪い。』と言い切って一歩も引かない。


それは《善悪》を基準に生きているからだ。


しかし、《本能》を基準に生きている「畜生界」の人間はたとえ正しいことでもコワイ相手、強い相手が攻めてきた場合には簡単に折れてしまう。


というわけで、私はこの《仮説》を検証してみることに決定した。


そして《戦略》を練った。


       【戦略①】

まず、鏡の前で上目づかいでにらむ練習をし、次に上目づかいのままスゴむ練習をした。

なるべくドスのきいた声で、高倉健のようにシブいスゴみを目指したが、いかんせん、もともと声がソプラノなのでヨーデルみたいになってしまう。

それでも、高くて細い声なりに心で殺意を込めて


『オウッ!誰に向かって口きいてんだこの野郎!』


と鏡の中の自分にガナる。

これを何百回くりかえしただろう。心の底から、「殺してやる!」と念じて声を出すようにしたからか、しだいにソプラノでありながら、ドラゴン?のようなスルドい威圧感みたいなものが出てきた。

なるほど、俳優はこんなふうに役作りをするのかも知れない。

なかなか自らを客観視するのは難しいが、自分なりに「これなら、威圧感を与えられそうだ」というレベルになるまで、さらに練習を重ねた。なにしろ声がソプラノゆえ《威圧感》など出せるわけがないのだ。それでも修練に修練を重ねていった。


       【戦略②】

最低限の威圧感を出せるようになっても、それだけでは足りない。

なぜなら、実際には、腕力がなく、見た目も弱そう、という致命的なハンディを抱えているからである。

では、そのハンディをおぎなうにはどうすればよいか?


孫子という兵法書には「敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず」とある。つまり、


 相手の立場に立つこと、だ。


イカツい、コワモテの鬼瓦が、ものスゴい迫力で怒鳴ってくれば、コワい。しかし、コワモテだけに「怒ったらコワそう」という【心の準備】がこちら側に無意識にできているから、怒鳴られても、コワくても《想定外》ではない。


 つまり、「振り幅」がないのだ!



「振り幅」とは、ギャップであり、ギャップがあるほど相手に強いインパクトを与える。


ふだんから優しい親切な人がお年寄りに座席を譲ってあげた場合、もともと優しいから(+5)で、席を譲ったらまた(+5)で(+10)その差は(+10)―(+5)=「5」インパクトとしては、「5」なのだ。

もとより単純に数値化などできないが、とりあえず数値化してみる。

さて、一方、いつも冷たい横柄な人はもともと(-5)であり、席を譲ったら(+5)として、その差は(+5)-(-5)=「10」なので、ふだん優しい人よりも2倍のインパクトがある。これは「優しさ」のインパクトであるが「コワさ」のインパクトはどうだろう?

コワモテは「黙っているだけ」でもコワいのですでに(+5)、「実際に怒鳴ったら」(+10)、くらいだろう。つまり、振り幅は(+10)ー(+5)=「5」でたったの「5」しかない。こちらが受ける打撃は、「5」だ。

しかし、私のような弱々しく、今にも死にそうな者が、さらに、弱々しく、下手に出てから、突然怒鳴ってきたらどうだろう?
それも普通以上の威圧感をかもし出せるとしたら?

その場合、「黙っている状態」は(-10)くらいになり、さらに、「弱々しく下手に出た」ら、(-15)、「実際に怒鳴った」ら(±0)くらいだろう。加えて「威圧感があった」ら(+5)くらいになるだろう。

すると、振り幅は(-15)-(+5)=「20」となるから、こちらが受ける打撃は「20」にもなるのだ!


コワモテの約4倍もの打撃を受けるのである!


そう、何を隠そうこの“振り幅”をつくるために、《威圧感》の修練をしたのである。


まさに「弱々しい外見」こそ【最大の武器】になるという寸法だ。


相手の立場に立った場合、『反撃してくるなどとは、1ミクロンたりとも想定できない弱々しい相手』が、突然、豹変してスゴんできたら、どうなるか?と想像してみる…


まず、一瞬だけ《思考停止》になることは間違いない。


そして、おそらくこう思うのである。


「今まで、この手のチキンがオレにさからってきたことなど一度もない。なぜ、こいつは、おびえた様子すらないのか?なぜ、さからうどころかスゴんでくるのか?ずいぶん度胸がすわってるじゃねえか?もしかしたらフトコロに刃物かなんかを忍ばせているヤバいヤツかも…」

という風に、目の前の不可解な現実の《つじつま》を合わせるのだ。心理学でいうところの【吊り橋効果】である。

相手が「ヤバいヤツ」だと認識すると、こうした「弱い者にしか強く出れない畜生界」の人間は、追われると逃げ走る野良犬のように【弱気】になるに違いない。

とはいえ、私の場合、ダニー・トレホやスティーブン・セガールのような「コワモテ系」は目指しようがない。かろうじて目指せるのは、映画「タクシードライバー」で若きロバート・デ・ニーロが演じた狂気の青年である。

コワモテのワルではなく、狂気のヤバイ奴を目指す。これが私に課せられた役どころだ。
そう、「タクシードライバー」だ!


                               【戦略③】

《振り幅による打撃力》は準備できた。

これは、最高に切れ味の良い『名刀』が手に入ったということだ。

だが、いくら『名刀』でも、使う者が臆病であれば、なんにもならない!

そう、少年期の暴力への屈従体験がトラウマになってしまった私にとって、この仮説の検証作業は、想像しただけで全身が震えるほどの恐怖が襲ってくる。

それは、振り幅の打撃の効果もむなしく、『逆上した相手が殴ってくるかも知れない』という恐怖だ。

私の心が恐怖に支配されていたら、スゴむどころか、声すら発せられない。

そこで考えたのが、《砂袋》である。
公園の砂場から、ほとんど粉に近い細かい砂を選別し、拳くらいの量をビニール袋に入れポケットに常に忍ばせるのだ!

この最強の武器は、どんなに強い、例えばKー1の世界王者レベルの者が相手でも関係ない。

両目に砂をかけられた瞬間、いかなる強者も「うっ!」と両目に手を当て、その痛みと視界ゼロ状態により、戦闘力はゼロになる。

相手が「ウッ!」と目を押さえているすきに、後ろから羽交い締めにし柔道部御用達の頸動脈圧迫でオトせばよい。(すぐに強いビンタで目を覚まさせないとまずいが。)

これ自体は、「暴行罪」「傷害罪」であるが、相手からの暴力がかなり先行し生命の危機に瀕する状況への【正当防衛】が成り立てば、また、【過剰防衛】にならない程度であればかろうじて罪には問われない。だから現実的には「羽交い締め」などせず、砂をまいて一目散に走って逃げればよい。


結局、ケンカは残虐なほうが、手段を選ばないほうが、勝つ。まともな人間は良心があるからそれができない。

極論をいえば、殴り合いで勝とう、などと思っているうちは怖いのだ。見栄だからだ。ボクシングの試合でもないのに、「腕力だけで戦わなければフェアじゃない」と思うのは、実はそれこそ《腕力に心が支配されてしまっている》のだ。


相手がK-1王者だろうが、背後から金属バットで頭をかちわってやる、背後から出刃包丁で一突きだ、という腹が本当に決まるかどうか、である。

精神状態としては、まさに「狂ったヤバい奴」だが、この腹が決まれば、いざ、暴力に出られても、なんとかなる。これで私の恐怖心の緩和は達成した。


くだらない、と言えば、くだらない。
小さい、と言えば、限りなく小さい。


だが、「どうせ自分は弱いから、なにをされてもおとなしく、泣き寝入りする運命なんだ…」とあきらめ、萎縮し、うなだれて暮らすのはもうこりごりだ、と考えた末にギリギリのラインで導き出した苦肉の策だった。


     《第二章》


《仮説検証》のチャンスは突如おとずれた。

ある仕事帰りの夕方の電車内。私は一番端の衝立てのある座席に座っていた。

するとその衝立てに立って寄りかかっていたガッシリとした髭づらの男(私の主観だが極楽とんぼの加藤浩次に似ていた)が、肩に背負った大きなバッグを私の側頭部に押しつけてきた。

ちょうど正面から私を見ると、私はそのバッグのせいで首をおもいっきりかしげている状態だ。実はこうしたたぐいの事は、人よりは多く遭遇していたと思うが、恐怖心から黙ってうつむいて、今までずっとされるがままになってきたのだ。

だが、もう、今は、ちがう!オレは生まれ変わったんだ!戦略も練った!


「今こそ仮説検証のチャンスだ!さあ、やめてくれ!と叫ぼう!」


ところが、いざ声を出そうとすると、手足がブルブル震え、息が止まるほど胸が苦しくなり、ポケットに砂を忍ばせている安心感も、現実を目前にすると一気に吹っ飛んだ。と、次の瞬間、その男が後ろを振り向き、目と目が合った!

私は、首をかしげたまま、男を見つめ「今、あなたのバッグのせいで私は、こんな状態です~」という念を、懇願する表情に乗せて必死の思いで送った。

しかし、やっこさんは、私の哀れな姿をその目でしかと確認したにもかかわらずその後も平然とバッグをグイグイ押しつけてくる。


「なぜ、同じ人間に対してこんなことができるのだろう?」


私なら逆立ちしても、こんな無礼な、そして可哀想なマネはできない。やはりこの男は頭がおかしいのだろうか?

私はもう1つ考えた。「もし、私が暴力団風の見た目だったらやっこさんは同じことができるだろうか?」と。


私は一気に決め打ちした。


私はナメられているのだ!


と。


もし、私の《決め打ち》がズレていなければ、この男は「弱い相手に強い畜生」なので、こちらが強く出れば引くに違いない。


よし、相手の立場に立とう…


やっこさんの心の中は、今、おそらく「このミイラみてえな弱そうなヤツ、オレがカバンをグイグイ押しつけてもなんにも言えねえだろうな~」と100%感じていると推測できる。

どうだろう?絶対に抵抗しないと思っている相手が、おもいきりスゴんできたら…

まずは、戦略通り、ギャップの振り幅を作らねばならないので、弱々しい声で、


「あ、あの~、す、すみません、ちょっとカバンに押しつけられてクビが痛いんですが、すみませんがよけてもらえませんでしょうか?」


とかなり恐る恐る伝えてみた。


すると、やっこさんは面倒くさそうに振り返り私を一瞬見つめたが、いかにも見くだした表情で黙殺した。

私は、勇気をふりしぼり、もう一度「あの~すみません、」と言いかけたそのとき、男は、スゴい勢いでふり向き、


「るっせえな、テメエで勝手によけろや、ボケがっ!」


と低い声でスゴんできた!


今までも、この男は、こうして弱そうなヤツを見つけては、スゴんで黙らせてきたのだろう…そして、今回も相手が黙ることを1ミリも疑わない。

そのとき、私の胸に


今だっ!これを逃したら一生泣き寝入りの人生だっ!


との思いがわき上がり「こんな犬畜生、ぶっ殺してやる!」と腹の底から覚悟しながら、勢いよく立ち上がり、


「オウッ!下手(したて)に出てりゃ調子こきやがって一体ダレに向かって口きいてんだっ!あ?」


とガナッた。


我ながら修練の成果をはるかに上回る威圧感が出せたと感じた。私の心の中では、「この野郎をなにがなんでも殺す」という一念が凝固していた。(この腹が決まらないと相手にはなにも響かないからだ。)

やっこさんは完全にフリーズし、表情は凍りついている、


「おどりゃ~ダレに向かって口きいとるんや?」


再度かぶせながら、私は上着の内ポケットに手を入れた。砂袋の中の砂をつかみ、万が一なぐりかかってきた場合にそなえた!


相手から見ると懐から刃物かなにか不穏なものを出そうとしているように見えたかも知れない。もちろんこれも計算された「しぐさ」である。


そして三度目、


「黙ってねえで、なんとかいわんかいっ、オウッ!」


とせまると、


表情の固まっていた相手は、急に眉を八の字にし、今にも泣きそうな、とても悲しそうな顔をした。と、ちょうど駅に着き、ドアが開いたとたん、走り去っていってしまった。


それを見た瞬間、私はその場にヘロヘロとへたりこんでしまった。他の乗客の目などどうでもよかった。


「るっせえな、てめえで勝手によけろや、ボケがっ!」


とスゴんできた男の180度の豹変ぶりが信じられなかった。


「ああ無事でよかった…」と胸をなでおろした。


その後も、こうした理不尽で一方的な仕打ちが、電車内や道ばた、あるいは、職場などで発生したとき、勇気をふりしぼって同様の検証作業をしてきた。

当たり前だが、私から仕掛けたことは皆無であり、すべて先方からである。私が《下手にでた直後にスゴむ》という「振り幅20」を使用すると、黙ってしまったり、その場から逃げてしまったり、ブツブツ一人言を言い出したり、様々な反応があったが、共通するのは、


   高飛車な態度が豹変する


という1点だった。


それは、私にとっては《恐怖》との命がけの戦いだった。

いずれにせよ、このような検証作業は、私の仮説の正しさを証明したということがいえる。


ほぼ例外なく、初めの居丈高な調子がなくなり、弱気になるさまを私は見てきた。


それはなぜなのか?


それは、「私の存在」をバロメーターにしているからである。


前述のとおり、誰が見ても「弱々しい姿」の私に対して、一方的な仕打ちを仕掛けてくる時点で、その人間の卑怯さ=臆病さ=弱さ→ヤバくなれば逃走という流れが、決定づけられているからなのである。


これが、体験した上でわかってから、暴力やいじめてくる輩に対する異常なまでの恐怖という「トラウマ」はかなり乗り越えられた。


今は、暴力に対しては、生存本能上必要な、人並みの恐怖しかない。


これは、「孫子の兵法」と「仏教哲学」と、これらをもとにした「戦略的思考」のおかげである。


この検証作業は、若い時分のことで、年老いた今となっては【遠い思い出】に過ぎないが、今でもたまに「畜生人間」にやられることがある。だが、経験上、こちらが強く出たときに悲しそうな顔になるのがわかりきっているので、可哀想だな~と今では笑顔でスルーする自分がいる。
 

この検証作業は、

①私の容姿が弱々しいこと。

②修練のすえに最低限の威圧感が出せるようになったこと。

③命がけで臨んだこと。

④まだ寛容な時代社会であったこと。

⑤運が良かったこと。

⑥少なくとも柔道の経験があり、最悪の事態
 に対処できるだけの最低限の身体能力と若
 い肉体を有していたこと。

以上6点の条件下でかろうじて可能になったといわなければならない。

特に、⑤運が良かった、という点に尽きると思う。


私が今回、この若い頃の体験を投稿した目的は、この体験を読んで《追体験》することで、いじめられたり、暴力をふるわれたり、それが原因で、心が萎縮し、おびえて、苦しんでいる人たちに、


そんなことをしてくるやつらはクズの中のクズ、チンチンなしの中のチンチンなし、恥っさらしのの中の恥っさらしだから、恐れるにたりない。


ということを骨の髄まで理解していただくためであり、そうした意識の人が増えることにより、卑怯な者が卑怯なことをできなくなる世の中を1ミリでも目指したいからである。

























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