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千冊前後の書籍からなる夢

「それは不可能です、ナポレオン」番外編です



 ブッカー貼りという単調で膨大な作業をしているとき、頭と口は暇になる。
 二年の三鷹が口を開いたのは、そんな単純作業に忙殺されていた図書局員たちが、怠惰と退屈さに満ちた空気で窒息しかけたときだった。

「もし、衣食住も将来もお金も、何も心配することありませんよっていわれたら、どんな本を読む?」

 この記録は、そんな読書好きの夢を語らった午後のものである。

「何も心配いらないからといって本を読むとは限りませんよね」
 まずはいつもの調子で一年の流川が議論を頓挫させた。
 反射のように、三年の染屋は顔をしかめる。彼はすでに三鷹の疑問に思考を巡らせていたのであろう。口を開きかけたが、彼の抗議は音にならずに消えていく。
「じゃあさ、何も心配いらない上に、本を読むほどに賞金が入るってのはどうですか。何ページ読んだらいくら、みたいに」
 不穏な空気を察してか、一年の坂下が助け舟を出す。
 彼の言葉に、僕の横にいた二年の佐羽が微かに笑ったのが気配でわかった。こういった雑談にはあまり参加しない彼女も、読書の話題となると別のようだ。
「ゲームの実績みたいでいいね。それなら私も読むかも」
 最後に一年の瀬成が同意して、議論は各々の夢に移行した。

「俺は源氏物語読破します」
 トップバッターを飾った坂下は、日本の古典を堂々とあげた。
 皆の手が一瞬だけ止まる。すぐに再開するのは単調な動きが染みついてしまっているからだろう。
「坂下、それ最適解」
 皆を代弁して、三鷹が告げる。
 染屋や瀬成もあからさまに溜息をつき、当の坂下だけが不思議顔だ。
「だって、全五十四巻っすよね。何年かかっても読み切れるかわかんないもの、挑戦するっきゃないじゃないですか」
「いかに読むべきものから目をそらし続けるのも読書の醍醐味だから」
「佐羽先輩もそういうこと言うんですね」
 流川が感心したように嘆息する。いくら読書好きが揃っている図書局とはいえ、名作全てを踏破できるほど学生は暇じゃない。
 皆がわかっていることを口に出してしまうのは、坂下の愛すべき長所だろう。落ち込む彼を染屋も慰める。

「それでいくと、私はナルニア国物語や指輪物語を読み終えます」
 流川が律儀に挙手をして告げる。
 ハリー・ポッターやダレン・シャンは読んだらしい。有名な児童文学シリーズは巻数が多く、気軽に手を出せないのも総意である。
「ハリー・ポッターとナルニア国物語が全7巻、指輪物語が6部だったか。ダレン・シャンは何巻だっけ」
「外伝を含むと13巻ですね」
「でも児童文学は良心的よ。『失われた時を求めて』は7巻だけど、ハリー・ポッターほど気軽に読めない」
「確かに」
 プルーストの大作を読んだことがある人を募るが、司書教諭の暮林も含めて誰も名乗り出ない。
 ロマン・ローラン、ヴィクトル・ユーゴ―、ドストエフスキーと次々と作家名があがり、皆が目をそらし続けている作品の傾向が見えてくる。
「歴史ものも長いよな。山岡荘八先生読破とか楽しそう」
 染屋が担当した本の仕上がりをチェックしながら提案する。
 ギネス級の長編作家に、皆が納得の声をあげる。
 坂下だけはまだ不満そうであったが、平安時代の日本語よりは数十年前に書かれた文章の方がまだ身近なのだから仕方がない。
「単純に、気になっていた作品に触れていくのもありだよな」
 発案者の三鷹が大きな図録を手にしながら、作品名をあげていく。
 『灼眼のシャナ』『イリヤの空、UFOの夏』『半分の月がのぼる空』、彼のラインナップはこういったときでもブレないらしい。
「ラノベも長いものは長いから、わかる気がします」
「揃えるとなると高いしなあ」
 意外にも流川と染屋が同意をし、二人の間にいつもの緊張感が走る。
 しかし、三鷹がひっくり返した図録でちょっとした風が舞い、空気はうやむやになって霧散した。

「私はスティーブン・キングを読みたい」
 皆が黙ったタイミングで瀬成が語る。
 家で映画を見ることが多いという彼女にとって、興味の高い作家らしい。
 しかし、長編が多く作数も多い彼の作品をすべて追うのは至難の業だ。せめて映画化されているものを、と彼女が告げるとホラーが苦手だという佐羽が若干身構えた。
「それでいくと、探偵小説は触れやすい」
「馬場、いたの?」
「いたよ。ちなみに皆の声筒抜けだから気を付けて」
 思えば、カウンター業務が疎かだった。
 当番を引き受けながら狭いスペースで作業していたらしい馬場が、完成済みの山に文庫本をいくつか追加した。
「馬場先輩は何読みますか?」
「いまならブラウン神父かな。ホームズとクイーンは読んだから」
「ポアロは?」
「じゃあ、クリスティも追加」
 三鷹の戯れを無表情でかわした乱読家は、また文庫本を拾い上げて去っていく。

「まりえちゃんは?」
 馬場や安藤の呼び名がうつったのか、染屋が佐羽を気さくに呼ぶ。
 佐羽はじっくりと考えるそぶりをした後、慎重な口調で答えた。
「ちくま日本文学、でしょうか」
「全40巻」
「俺なら11巻目で挫折する」
「40巻からさかのぼるべきっすね」
 けたけたと笑いが起こるのは、読書好きが揃った空間ならではだろう。
 二河原高校図書館にも揃っている全集は、誰もが挑戦し挫折をしていった証であるように、後半につれてくたびれていないと評判の本だ。
「賞金なんかなくても読むけれど、そういう機会でもなければ全部は読まない気がして」
「読みたいのはやまやまですけどね」
「ここに入った時、『900 あ』から読んでやるぜ、と俺も思ったんですけどねえ」
「あるある」
 佐羽の嘆きに皆で同意して、しんみりとした空気が流れる。
 この世には、読むべき本が無数にある。なのに、時間は有限だ。現代社会は読書以外の娯楽にもあふれ、名作に触れないまま歳を重ねることも珍しくないだろう。
 目の前に積みあがる本を見上げる。
 ひとつひとつ、丁寧にカバーを貼った本であっても、一人で全てを読むとは限らない。僕たち学生はお金もないし、本分はどうしても勉強だ。衣食住は心配いらないが、将来のことを思えば教科書を開かなければならない。

「それで、椿は?」
 ふと三鷹がこちらを振り向いた。
 皆が一斉に僕を見る。聞き役に徹していた自分に気づいて、僕はあわてて思考を巡らせる。
「僕は……、デュマを読みます」
「フィス? ペール?」
「えっと、どちらも……?」
「ペールは読みごたえありそうね」
 佐羽が微笑んで、最後の一冊を山に追加する。
 そのまま話は流れ、話題は取り留めもないものになっていく。そのうちに閉館時間が近づき、皆がぽろぽろと立ち上がり始めた。

「どうして、デュマ?」
 閉館直前に南方が姿を現し、また嵐のような勢いで皆を巻き込み始める。
 カウンターのパソコンを操作していると、馬場が小声で聞いてきた。
「……なんででしょう」
「わかんないんだ」
「ええ」
「わかるけど。そういうのってあるよね」
 表情が硬い馬場が、微かに口角を上げる。
 その表情を見て、彼にも読み終えたい物語があるのだとわかった。
 いつか、僕も触れることが出来るだろうか。些細な夢想は、南方の大声にかき消された。


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