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街歩き #017 | 東京都中央区の旅

東京都中央区

 こんにちは。本日ご紹介する街は2022年11月19日に訪問した「東京都中央区」です。

 人形町から小伝馬町を経由し日本橋まで。中央区北西部を歩きます。

 人形町の風情を残す甘酒横丁・元葭原総鎮守の末廣神社・伝馬町牢屋敷後にある大安楽寺と十思公園と身延別院・日本橋室町にある古くて新しい神社の福徳神社・建物自体が国重文の三越日本橋本店・日本銀行の貨幣博物館・"麒麟の翼"でお馴染みの日本橋など…。

 今回は「東京都中央区」を歩きます。

甘酒横丁

甘酒横丁

 人形町駅から徒歩3分。甘酒横丁は日本橋人形町にあります。

 人形町は明暦の大火で遊郭が焼失した後は芝居小屋が集まる街でした。1841年天保の改革で芝居小屋は浅草に移転。明治初期に通りの入口近くに甘酒屋があったことが横丁名の由来です。水天宮や明治座の他に明治の頃は寄席の末廣などがあり、界隈は賑わっていました。

甘酒横丁

 人形町は人形焼発祥の地ですね。人形町駅近くにあるのが板倉屋さんで、水天宮前にあるのが重盛永信堂さんです。人形町を舞台にした阿部寛さん主演ドラマ"新参者"でも人形焼がドラマのアクセントになっていました。

人形町 人形焼

 路地を入ったところにある人形町今半。今半といえば私にとっては"人形町今半"が一番馴染みがあります。1952年、寄席があった跡地に今半(現浅草今半)日本橋支店として開店したのが始まりです。

人形町 人形町今半

 甘酒横丁から人形町通りの通り向かいにある"玉ひで"。親子丼発祥のお店として有名ですね。昔、行列に並んで食べに来たことがあります。来年の秋まで新店舗改装のため、現在は残念ながら休業中です。

人形町 玉ひで

末廣神社

末廣神社

 甘酒横丁から通りを2〜3本入ったところにあるのが末廣神社です。

 創建不詳。吉原が現在地に移転する前の元吉原(葭原)総鎮守で、1596年以前から鎮座。末廣とは扇子のことでいかにも人形町らしい神社名ですね。

末廣神社

 路地の中にある小さな神社ですが風情を感じます。本殿も社務所もコンパクトですが、それが人形町らしくていい。

末廣神社 本殿

 境内には"は組の石碑"。火災の多かった江戸の人々にとって火伏・災難除けは切実な祈願事だったのでしょうね。

末廣神社

大安楽寺(高野山真言宗)

大安楽寺

 末廣神社から徒歩15分。人形町通りを真っ直ぐ進むと小伝馬町駅が見えてきます。大安楽寺は小伝馬町駅のすぐ近くにあります。

 1882年山科俊海開山。かつてのこの一帯は伝馬町牢屋敷でした。処刑場で亡くなった者たちの慰霊のため、大倉喜八郎・安田善次郎らの寄進により創建されました。大安楽寺は大倉の"大"と安田の"安"に由来するのだとか。

大安楽寺 本堂

 "江戸伝馬町処刑場跡"碑が建てられています。大安楽寺とその目の前にある十思公園一帯がかつての伝馬町処刑場跡地です。

大安楽寺 江戸伝馬町処刑場跡碑

 境内には延命地蔵尊像がありますね。刑死者や牢死者を弔うために建立された寺院らしいなと思います。

大安楽寺 延命地蔵尊像

十思公園

十思公園 吉田松陰石碑

 大安楽寺の目の前にある公園が十思公園。伝馬町牢屋敷跡にある公園です。

 現在では普通の街中の公園ですが、1613年頃から1875年まで伝馬町牢屋敷があった場所です。

十思公園

 園内には当地で処刑された吉田松陰終焉の地碑があります。処刑の際に詠んだ辞世の句が”身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂"でしたね。

十思公園 吉田松陰石碑

 公園中央にある”石町時の鐘”。江戸で最初の時の鐘は現在の本石町に設置されました。火災により何度か修復を繰り返し、現在の銅鐘は1711年に鋳造されたもの。1930年に本石町から十思公園内に移設されました。

十思公園 石町時の鐘

 公園脇の十思スクエア(旧十思小学校)前には、2012年に中央区教育委員会の発掘調査により発見された牢屋敷の石垣があります。

十思公園 牢屋敷の石垣

 十思公園の”十思”は、中国の歴史書”資治通鑑”の”十思之疏”が起源。第十四小区の小学校だったことから同じ韻である”十思(じっし)之疏”にちなみ命名されたのが旧十思小学校だそうです。なかなか壮大な感じの命名由来ですね。

十思公園 旧十思小学校「十思之疏」の由来

身延別院(日蓮宗)

身延別院

 十思公園からすぐ近く。大安楽寺裏手にあるお寺が身延別院です。

 1883年新居日薩上人開山。大安楽寺と同じく伝馬町牢屋敷跡に建立。処刑場で亡くなった者たちの慰霊で建立。

身延別院

 境内に祀られている"油かけ大黒天神"。国民栄誉賞を受賞している昭和の名優・長谷川一夫のゆかりと伝わります。ひしゃくで油をかけてお参りする大黒様です。

身延別院 油かけ大黒天神
身延別院 油かけ大黒天神

小津和紙・小津資料館

小津和紙

 身延別院から徒歩5分。小津和紙は日本橋方面昭和通り沿いにあります。

 1653年開業。伊勢松阪から出府した小津清左衛門長広が江戸大伝馬町に開いた紙問屋。多様な事業を展開する大店に発展しました。

小津和紙 パンフレット

 かつての大伝馬町は江戸随一の繁華街。呉服問屋・木綿問屋がずらりと並ぶ街だったんですね。

小津和紙 看板

 小津史料館は3階。和紙と小津家に関する資料が展示されています。国学者・本居宣長は豪商小津家の出身だったのですね。

小津和紙 パンフレット

福徳神社(芽吹稲荷)

福徳神社

 創建不詳。876年頃には鎮座と伝わります。鎮座する日本橋室町付近はかつては福徳村と呼ばれていました。主祭神は倉稲魂命。江戸時代に太田道灌と徳川家康も合祀。

福徳神社 鳥居

 徳川家康は1590年に初めて当社に参拝。後に本多忠勝が命じて当社に祀られるようになったとのことです。1614年には2代将軍・徳川秀忠も参拝。秀忠は当社の別名を"芽吹稲荷"と名づけました。

福徳神社

 戦後には日本橋もビル街に大きく発展。福徳神社もしばらくはビルの屋上に鎮座する神社でした。2014年の日本橋室町再開発により、COREDO室町の前に立派な新社殿が建立され遷座。ビジネス街の中にある立派な神社です。入り口には算額が掲げられていますね。

福徳神社 算額
福徳神社 御朱印

三越日本橋本店

三越日本橋本店

 福徳神社から中央通りを渡ったところにあるのが三越日本橋本店です。

 1673年に三井高利が開いた呉服店の”越後屋”が三越の始まり。日本初の百貨店とも言われる三越。1935年に増築改修された現在の建物は国重文に指定されています。

三越日本橋本店

 1914年誕生の正面玄関ライオン像はクリスマス仕様ですね。

三越日本橋本店 ライオン像

 中央ホールにそびえる天女像は三越の基本理念"まごころ"を表現。

三越日本橋本店 天女像

 1927年設置の三越劇場は世界でも類を見ない百貨店内の劇場。戦後の芸術復興に大きな役割を果たしました。

三越日本橋本店 三越劇場

三囲神社

三囲神社

 1914年創建。日本橋三越本店の屋上に墨田区向島の三囲神社より勧請。三囲神社は三井家の守護神として崇敬されてきた神社です。百貨店の屋上に鎮座する神社はなかなか開放的な感じです。

三囲神社

 中央に祀られているのは活動大黒天。商売繁盛をもたらす神様ですね。

三囲神社 活動大黒天

 隣に鎮座するのは三囲稲荷。小さな社ですが、空の青と紅白の社のバランスがいいな。

三囲神社 三囲稲荷

 手水舎のマークも三越なんですね。

三囲神社 手水舎

 三越日本橋本店の屋上にある日本橋庭園。元々あった屋上庭園を2019年にリニューアル。なかなか心地よい空間です。日本式庭園と空の青と水と緑のバランスが良い。都会のオアシス的な場所ですね。

三越日本橋本店 日本橋庭園

貨幣博物館

貨幣博物館

 三越日本橋本店の裏手にある日本銀行本店。その別館に貨幣博物館があります。

 1985年開館。日本のお金の歴史に関する博物館。日本銀行本店本館の目の前にあります。古代の富本銭から日本銀行券の偽造防止技術まで。なかなか興味深い展示で大変勉強になりました。

貨幣博物館 パンフレット

 日本銀行本店のある場所は、江戸時代には”金座”がありました。かつてはこの地で金貨が造られていたんですね。

日本銀行本店

 日本銀行券は20年ごとに新しい紙幣に生まれ変わっています。1984年発行されたのが福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石の紙幣。2004年が福沢諭吉・樋口一葉・野口英世でした。

現在有効な銀行券 パンフレット

 2004年発行の紙幣を初めて見た時はおもちゃの紙幣っぽいと感じた記憶があります。2024年発行の新紙幣はユニバーサルデザインでアラビア数字がさらに強調されるため、慣れるまでは同じような感覚を持つのでしょうね。

 一万円札は「宇治平等院鳳凰堂の鳳凰像」から「東京駅」へ。五千円札は「尾形光琳の燕子花図」から「野田藤」へ。千円札は「富士山と桜」から「葛飾北斎の神奈川沖浪裏」へ変更になります。

生まれ変わる日本銀行券 パンフレット

 渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎の新しいお札は2024年上期発行開始です。

生まれ変わる日本銀行券 パンフレット

日本橋

日本橋

 貨幣博物館から歩いて5分。首都高速都心環状線の下に日本橋があります。

 国重文。1603年徳川家康の江戸入府後、江戸の街づくりの中で架橋されました。主要五街道起点の日本橋は魚市場や問屋が立ち並ぶ江戸の中心として発展しました。

日本橋 御宿場印

 現在の橋は1911年に架橋。橋の装飾については西洋的なデザインを主体に日本的なモチーフを取り入れたデザインを検討。その過程で"麒麟と獅子"が取り入れられることになりました。

日本橋 麒麟像

 芸術性が高い橋柱の麒麟像。想像上の生き物である麒麟に翼をつけたのはこの像がオリジナル。日本の道路の起点である日本橋からあちらこちらに飛び立つという思いが込められています。”麒麟の翼”は深い意味があったんですね。

日本橋 麒麟像

 東京市章を持った獅子。獅子も想像上の動物であり、狛犬などを参考に作られたのだそうです。

日本橋 獅子と東京市章

 橋の文字は徳川慶喜の揮毫。最初に日本橋を架けた徳川家康の子孫ということで慶喜公に依頼されました。時の東京市長・尾崎行雄も「江戸が戦火を交えずに無血開城できたのは、恭順の姿勢を貫いた慶喜公のおかげであり、いわば東京の一番の恩人である」と述べています。

日本橋

小さな旅の終わりに

日本橋

 人形町に元々存在していた吉原(葭原)遊廓は1657年の明曆の大火により名前ごと移転。元葭原と呼ばれた当地は芝居小屋が集まる街に変わりました。人形芝居も行われていたことから人形町と呼ばれるようになったのですね。

人形町駅

 人形町といえばからくり櫓。人形町通り沿いに設置されています。時間になると町火消し"は組"が動き出しますよ。

人形町 からくり櫓

 江戸時代、大伝馬町が一大商業地として発展したのに対して、小伝馬町は伝馬町牢屋敷が置かれた場所でした。伝馬と呼ばれる輸送用の馬や人足が集まる場所だったことが伝馬町の地名由来です。

小伝馬町駅

 伝馬町牢屋敷には吉田松陰の他にも、高野長英・橋本左内・頼三樹三郎・渡辺崋山が収監されていました。八百屋お七や鼠小僧次郎吉も有名ですね。平賀源内が人をあやめたことで投獄され、伝馬町牢屋敷で獄死していたという話は知りませんでした。

小伝馬町牢屋敷展示館

 福徳神社の入り口近くにあった ” ランチタイムdeオハライ ” の看板。昼のランチタイムに5,000円払って20分のご祈願を受ける人がどれくらいいるのは分かりませんが、ビジネス街にある神社らしい看板ですね。

福徳神社 ランチタイムdeオハライ

 かつての東海道をほぼ引き継いでいるのが現在の国道1号。起点は東京・日本橋で、大阪・梅田新道交差点が終点です。

国道1号 日本橋

 ナイジェリアの歌手Remaの曲 ” Calm Down "。ヨーロッパ全土で大ヒットした後、アメリカでは Selena Gomez とのリミックス版がリリースされ、こちらも大ヒットしています。

 アフロビートの感じが耳に残る曲ですね。" Baby, calm down, calm down(落ち着いて、落ち着いて)Girl, this your body e put in my heart for lockdown, for lockdown, oh, lockdown(君の体が僕のハートをロックダウン、ロックダウン)Girl, you sweet like Fanta, ooh, Fanta, ooh(君は甘いんだファンタのように、ファンタのように)"。耳に残るなかなか良い曲です。


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