ephemeral (#1)
※インフルエンザであまり書き進められませんでしたが・・・。とりあえず第一章は乗せておきます。完全版はいつになるかわかりませんし、完成しないかもしれません。登場する楽曲の意味を調べてみると新たな気づきが得られるのかもしれません。
あと、画像のピアノは東京ではなく福岡県のストリートピアノですが、お話の舞台は東京です。
1.
大きな駅に着くと、車内にいる多くの人たちが外の方へ溢れ出していき、その空間を埋めるかのように多くの人が車内に流れ込む。新宿駅を過ぎてからは車内の人も少し減ってきたように見えた。
神田駅で電車を降りると外は肌寒く、今にもこの鉛色の空から雨が降ってきそうだった。ホームの隙間から見えるビル群はこの暗い雲を重く支えているようだった。
ホームには女子高生の集団が騒いでいる。こんなにも短いスカートを履いても寒くないのかと思ったが。彼女らは彼女なりにそれ以上に大切なものがあるのだろう。それは、私にとっては遠く想像の及ばない、それを知ったとしても共感することは出来ないものなのだろう。
天井のスピーカーの音が電車の接近を知らせる。遠くで小さく光が見えたかと思うと、その光は次第に大きくなり、電車の形を成していった。緑色のラインが入った電車はホームに勢いよく滑り込んで停車した。
車内は外とは対照的に嫌に暖かかった。時々頭がボーッとする。混沌とした意識の中で私はドアの窓の向こうで灰色のビルたちが流れていくのを眺めた。
次の駅に着きドアが開いた頃、外の寒気が私の意識を取り戻した。と同時に、またあの感覚が湧きだしてきた。混んだ車内では目のやり場に困る。東京に住んで2年と少し、厳密に言えばもう少しで3年を過ぎようとしているものの、私はどこを向いたら良いのかがよく分からなくなる。東京の人はこんな時どうしているのだろうか。その答えは目の前を見たらすぐに分かった。スマホを見ている。
私は先週買ったばかりの文庫本を取り出し、手元の方へ視線を落とした。
田町駅で降りると、改札を抜け街を歩いていく。今回の目的地は田町駅の近くにあるコーヒー店だ。私は時々、都心部へいろんな店のコーヒーを飲みに行っている。ただ、2年も住めば有名な店の大半は制覇してしまう。その中には心から美味しいと思える店もあれば、期待していたほどではない店もあった。
有名どころを抑えた今は、穴場を発掘していると言ったら良いところだろうか。
街路樹はすっかり葉を落とし、既に季節は冬へと入ったことを改めて実感させた。
しばらく歩くと、モダンで洗練された小さな建物が見えてきた。今まで巡った店はどこか満たされないような気持ちが残っていた。ただ、この店はそんな私を満たしてくれるような期待が湧いてきた。
木のドアを開けて中に入ると、コーヒーのいい香りに包まれた。私の期待は更に大きくなる。
席に座ると、店員がおしぼりと水を持ってきた。私は注文をする。マンデリンのドリップコーヒーとクロワッサン。昨日決めたものと同じだ。店員がカウンターの奥に戻ると豆の重さを測り、グラインダーで豆を挽き、ドリッパーにペーパーフィルターを設置し、それに粉をにいれた。そして丁寧にお湯を注ぐ。その一連の仕草は、美しくどこかバレエなどを見ているかのように思えた。
私が感心に浸っていると、目の前に注文の品が運ばれてきた。
「ありがとうございます。」と私が言うと、店員は
「ごゆっくりどうぞ。」と言いカウンターの方へ戻っていった。
店内には私とあの店員以外は誰もいなかった。
私は白い湯気を立てている黒くて澄んだ液体に意識を戻し、それを一口飲んだ。それは私の期待を超えたコーヒーだった。ただの”美味しい”という言葉では片付けきれないような繊細でありながらもしっかりとしたコクを感じられ、その中にどこか甘みを感じられる、そんな味わいだった。
店内は天井の大きな2つのスピーカーからジャズが流れている。決して激しくない静かなジャズだった。その中にはビル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスの曲も含まれていた。
静謐な時が流れる。私はそこで持ってきた本を読んだ。ページを捲る。読む。また捲る・・・。
店の中にいる間、私はとても満たされた気分になった。
机の隅のコーヒーがカップの5分の1の量になって冷めてきた頃、私は時間の経過を感じた。腕時計で時間を確かめると、既に30分ほど時間が流れているのに気がついた。残った酸味が強くなったコーヒーを飲んで私は勘定を済ませて、店を後にした。
駅に戻る途中、どこからかピアノの音が聞こえてきたような気がした。
その音がする方へ私は足を向ける。どうやらここは地下鉄の駅のようだ。地上ではビジネスパーソンや大学生らしき人と何度かすれ違ったが、地下は誰もいなく静寂に包まれていた。
音を頼りに進んでいくうちに、 その音の発生源が分かった。
エスカレーターの裏側に小さな看板が立っていた。
「フリーピアノ どうぞご自由に演奏して下さい。 (演奏可能時間 8:00〜18:00)」と書かれている。
その先にアップライトピアノがひっそりと置かれた小さな空間があった。左側には小さな木が数本植えられている。そこは、まるで周囲に溶け込むかのように、いや忘れ去られて見向きもされない程に控えめで目立たない、ピアノとそれを弾く人のためだけに用意された、暗く閉ざされた世界のように思えた。
奥の方へ進むと、黒い服を着た髪の長い女性がモーツァルトの『レクイエム』第1番を弾いていた。その時、私は彼女と以前何処かであったことがあるような気がしてきた。第1番を弾き終えると第2番を弾き始めた。暗くてどこか物寂しい旋律がこの誰もいない構内で静かに響く。彼女は誰のためにこの曲を弾いているのだろうか。この不思議な感情を抱きながら、私はその場を離れることが出来なかった。
第2番を弾き終えた時、彼女は初めて私に気づいた。私が話しかけようとすると彼女が先に私に話しかけて来た。
「何時からここに?」
「第1番の途中から。」
「ふ〜ん。何処かで見かけたような気が・・・。」
やはりそうか、私と彼女は以前会った、もしくは見かけたことがあるようだ。試しに、私は自分の大学と名前を彼女に教えた。すると彼女は
「あ、同じ大学だ。だから見かけたことがあるのか。」と淡々と言った。私は疑問に思っていたことを聞いてみる。
「なぜこんなところで、レクイエムを弾くのですか?誰もいないこの場所で。誰のために弾いたのですか?」
「なんか、この曲を聞くと落ち着くんだよね。」少し彼女の表情が和らいだように見えた。
彼女が言うには、中学の時までピアノを習っていたらしい。
彼女は私に何かを弾くように言った。私もピアノを習っていたとはいえ随分前の話だ。今は弾けるかどうかさえ怪しい。私は音を探りながらたどたどしくベートーヴェンの第九を弾いた。曲の方はなんとかそれっぽい形になったのでひとまず安心した。
私が曲を弾き終えて彼女はこう言った「この曲、あまり好きではない」と。ただ、私はその時、その言葉の真意には気づかなかった。
去り際に彼女は私にそっと名前を教えてくれた。
帰りの電車の中でも家に帰った後も、今日あったことを考えた。あの大学の中の何処かに彼女がいるのだと。
改めて思うと、今日起きたことが不思議な出来事のように思えたが、確かに実際に起ったことだ。
去り際に彼女が言った言葉を思い出す。「私、夜野葵です。」
”やのあおい”。彼女の名前に、仕草に、そして話し方に何かを隠しているように思えたと同時に、どこか彼女に惹かれる自分を感じた。