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邪魔なので伐っていいですか~街路樹の変遷から~


政治家が語る「街路樹は切ってしまえ」

 もう何年も前の事である。仕事上のつきあいでしぶしぶ某政治家の講演会に行った。その政治家の地元では、街路樹として植えられたイチョウの木が大きく成長し、伐採するか否かでたびたび話題になっていた。
 伐採派のその政治家が語っていたのは「とにかく根上りで道路がデコボコになっていて危ない」「落ち葉問題もある」ということだった。「車椅子やお年寄りのことを第一に考えている」ことを強調したうえで、「街路樹なんていらない。どうしても緑が欲しいなら、伐採した跡に柳でも植えておけばいいんですよ。」
 支援者たちの熱い拍手に、講演者は「どうだ」といわんばかりの満面の笑みを浮かべていた。部外者とはいえ、今でも記憶に残るほど後味の悪い講演会であった。

街路樹を伐採してもいですか

 何が何でも伐採反対というわけではない。木を伐採して歩道を拡張すれば、車椅子やベビーカーなども安心して通れるようにするなどメリットもある。信号も良く見えて安全に走行できるし、木の手入れにかかる費用も抑えられるだろう。
 ただ「邪魔になったら切ってしまえばいい」という言い方に、手っ取り早く安易に問題を終わらせようとしていまいか、という疑問が残ったのだ。筆者がこうした街路樹問題に初めて接したのは、社会人一年目に住んだ街だった。政治家の発言がひっかかった理由の一つに、この時の体験もある。
 当時住んでいた家のすぐそばには甲州街道が通っていた。ある日、街道沿いのケヤキ並木の木を伐採していいかについてのアンケート用紙が、郵便ポストに入っていたのだ。ケヤキをどうするかではなく「伐採していいと思いますか」の問いにハイかイイエで回答する内容だったと記憶している。そこには落ち葉の季節になると清掃が大変なこと、雨の日には濡れた葉で滑り危険なことを理由に、伐採を計画している旨が記載されていた。

街路樹のメリット・デメリット

 その時は、街路樹を伐採するなどもってのほかだと思っていた。人間の勝手で植えられ、勝手に寿命を終了にさせられる樹木のことを考えると、なんともやるせない気持ちになったのだ。
 そのうえ、伐採してしまうと木陰がなくなる。景観が悪くなるといったことが考えられる。四季の移ろいを感じながら歩くこともできなくなる。また、街路樹があることで排気ガスを吸収する効果や騒音を軽減する、ヒートアイランド現象を抑制するといった効果もある。
 だが、人口や交通量が増加すると同時に、街路樹が大きくなってくると、それなりに問題が出てくるのも理解できる。根が張って路面がデコボコになっているケースもあり、通行に危険が伴う箇所があることも確かだろう。一概にどちらがいいとは言い難い。

こんな街路樹ばかりだったら素敵。
写真は本文とは無関係の、ジブリ美術館(東京都三鷹市)に向かう途中の道

街路樹の歴史

 では、これまで街路樹はどのような歴史を辿って来たのだろうか。
 仁治元(1240)年には、北条泰時が三河国に道標として柳を植えさせている。その後も記録は少ないものの、室町時代紀行文や歌の中に並木があったことを確認できる。戦国時代にも各地の大名が並木の植栽に力を入れていたようだ。
 『樹の日本史』によると「織田信長は天正3(1575)年に4人の同奉行を任命して、東海道と東山道に松と柳を植えさせ、一里を36町に決め塚の上に榎を植えさせた」とある。このほかにも上杉謙信は越後で松、柏、榎、漆などを植えさせている。
 また、加賀清正は豊後道に松並木、熊本から阿蘇神社に至る道には杉並木を植えさせている。そればかりか「清正は『一枝を斫(き)らば一指を斬るべし、一株を伐らば一首を戮るべし』という札をたてて並木を守らせた。」とあるぐらいだから、相当大切に扱われていたことがわかる。
 徳川家康なども東海道や越後路、奥州路にケヤキ、ムクノキ、松、桂などを樹を植えさせている。これらは樹形がよく大木になること、風に強いことから選ばれたようだ。

大切に扱われた街路樹

 その後も五街道をはじめ、諸国の街道に樹が植えられていき、日光の杉並木や愛知の松並木などが誕生していった。こうして街道に樹が植えられて行くにつれ、各地の特色を出す動きも出て来たようだ。
 しかも、清正が立てた札のように、旅人が道以外のところ(樹が植えてある部分)を歩いたり、触ったりすることを禁じるなど、かなり樹を大切に扱っていたことがわかる。
 街路樹は明治期になっても大切に扱われていたようだ。道路の伐採は極力避ける、障害になるなどの理由で伐採の申し出があった場合には「実況をよく調査するようにという趣旨の太政官布告(だじょうかんふこく)が出された」という。今とは大違いの扱いである。

樹種の変化

 樹種の選び方として面白いのが奈良時代だ。なんでも果樹を中心に植えられており、その条件は実ができることがだったそう。戦国時代になると用材として用いるため、また冬には防風の目的から、松や杉が良く植えられるようになる。
 明治8(1875)年には、東京府が後に博物館の父とされる田中芳男のいる「博物館宛てに、彫に植えるべき樹木の種類について問い合わせ」ているそうで、木を植える理由としては「堀に馬車が落ちるのを防ぐことと、夏に日陰を作ることをあげている」としている。田中が回答したと思われる内容に「成長迅速で、落葉樹であることを条件」に挙げられていたそうだ。話はそれるが、ツツジなどの低木が今でも植えられているのは、「馬車が落ちることを防ぐこと」に端を発しているのだろうか。
 田中からの回答もあり明治以降には、夏は涼しい日陰を、冬には日差しを取り入れるために落葉樹が好まれたという。その後は、一年を通して緑が楽しめる常緑広葉樹が増える傾向にあるそうだ。

数多くの樹種が植えられるも、柳はダメ

 江戸時代まで街道や堤などに街路樹が作られていたようだが、幕末になると市街地に西洋の年を模した並木も作られるようになったという。歌川広重や葛飾北斎の浮世絵にも、道端に木々が植えられているのを見ることができ、当時の様子をうかがい知ることができる。
 ちなみに近代街路樹発祥の地は横浜の馬車道で、ここには柳と松が植えられたという。東京では京橋や本郷、銀座などにも街路樹が植えられた。樹種としては、桜、松のほか楓、柳、槇、桃、梅といった種類もあったという。桃や梅など現在では街路樹としてほぼ見かけない樹種もあって興味深い。
 ただ、管理がうまくいかないところもあったようで、銀座やお堀端は次第に柳に植え替えられた。ところが、柳は日陰を作らない上に樹形の乱れがひどく「東京市の参事会で、根本から切れと批判されるに至った」そうだ。
 昔は将軍や大名が「樹を守れ」と大切にしていたはずだが、その心はこのあたりから少しずつ崩れ始めたのだろうか。

安易な解決の前に、工夫する努力を

 以前、イギリスの方に「東京は緑がたくさんあっていいね」と言われたことがある。「ビルがたくさん建っているのに、緑もこんなにたくさんある。だから好き」だと。コンクリートだけの味気ない街ではないことに心打たれたようだった。
 それなのに冒頭の政治家のように、街路樹が邪魔だから、危ないから伐採すれば問題解決とは、なんとも人間の勝手がすぎないか。以前は、枝葉を十分に伸ばせるように交通標識や信号、電線の位置を調節する工夫をした人もいたという。交通量が増えた今では、同じようにするのは難しいだろう。だが、工夫する余地はあるはずである。
 工夫することは、時間とお金がかかる。地道な努力が必要であるが、何か策があるはずだ。「自然を大切に」「命を大切に」といいながら「邪魔だから、不要だから伐採」とは、あまりに相反することを言っている。この言葉は「我々の命もぞんざいに扱っていい」と言っているのと同じことだと、もうそろそろ気づいていい。

<参考文献>
『樹の日本史』(新人物往来社 平成2年発行)
※冒頭の写真は葛飾北斎の冨嶽三十六景《東海道程ヶ谷》

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