それって二次じゃないですか〜国語総覧から飛躍して
高校生の時の愛読書は、「国語総覧」だった。
好みの偏りはあるにしても、100%文系だった自分は、古代から現代に至るまでの国文学とその背景となる歴史と文化(のみならず中国の古典、主要外国人文学、歴代のノーベル文学賞受賞者まで載っている)を網羅したこの参考書が大好きだった。
使用目的としては、当座は高校生の現国・古文の資料、大学受験の参考書という位置付けだが、文学好きの人間にとってはとても面白い本である。
たかだか十数年しか生きていない高校生には、その中で触れられている作品に触れることはよほどの文学好きでもなければ非常に少なく、単なる受験用の知識として詰め込むのが精一杯だ。むしろ大人になってからさまざまな文学作品を読むようになってから、この本が格好の解説書となってくれる、という気がする。
小説、戯曲、随筆、詩、和歌、短歌、俳句といったいわゆる文学作品のみならず、能、狂言、歌舞伎、文楽までカバーしており、これで¥600(当時)とは信じられない値段である。
話はそれるが、自分とたいそう気が合い、ただ子どもの頃は友達がひとりもおらず、図書室の本を全て読破した、という年下の友人がいる。高校の教員免許を持ち、卒論は夏目漱石を選んだというその友人もこの参考書をたいそう愛読したという。自分だけではなかった、と驚き、嬉しく思ったものだ。そんなことで、自分たちは数十年たった今でもこの一冊をちゃんと本棚に置いている(自分のものは読み過ぎて表紙が外れてしまった)。
二十代のころ、能「船弁慶」の色紙と台本をもらった。年上のいとこが「家の近くでやっていたけどよく分からないから」と会場でもらってきて、自分に回ってきたのだった。
小学六年で源義経の大ファンになった自分は、その台本が思いのほかすらすら読めたので、面白かった思い出がある。
そののち、ふと頭に浮かんだのが「国語総覧」で、そういえば能のページの最後にあったのが「船弁慶」だったな、「俊寛」は母が見たとか言ってたな、歌舞伎のページにも義経千本桜ってのがあったっけ、なんだ、能とか歌舞伎って平家ネタが多いんだなぁ、等々ぼんやりと考えていた。
月日は流れ、某漫画の二次創作を書くようになってはたと気がついた。
今自分が夢中になっているその行為は、昔から行われてきたのではなかったかと。
「船弁慶」も「俊寛」も「義経千本桜」も、「平家物語」の二次創作ではないかと。
拙い知識の中で考えても、例えばヨーロッパ美術なら、ギリシャ神話や聖書の中の名シーンを描いた名画がいくらでもある。それは画家の解釈や時代背景によってかなり自由にアレンジされており、同じテーマでもこうも違うのか、いやいやそれってアリなんですか、と思ってしまうことすらある。
キリスト教でいえば、イエス・キリストの母マリアが、あなたは神の子を身ごもった、と大天使ガブリエルからお告げを受ける「受胎告知」というシーンがあり、ここから数々の名作が生まれた。
中でも面白いのは、イタリアのクリヴェッリという画家の作(1486)。このドラマチックなシーンに、当時のイタリアのある都市が自治を許された記念という要素を持ち込んだ。そのふたつを組み合わせるという発想自体がもはや常人でない上、画家は精密な透視画法やだまし絵のテクニックを駆使、金も多用し、カラフルでリアルな細密画に仕上げている。
この絵は、かつて修道院の祭壇に飾られていたという宗教画であるにも関わらず、見ていてとても楽しい。美術館で実際に見たことがあるのだが、思いのほか大きな絵で見やすく、人々が群がっていた。
当時の宗教画や肖像画というものは(表向きは)娯楽作品ではない。けれど画家は、当時の絵画の約束やパトロンの意向を入れた上で、自分の描きたいものを、描きたいように描き、ついでにおのれの技量も誇示しつつ、楽しみながら絵を作り上げた、そんな気がするのだ。
印象的なシーンを、自分の想像でさらに広げて再構築し、自分の手でそれを再現する。
それはもう、二次創作の始まりではないか。
和歌における本歌取り、モーツァルトの「きらきら星変奏曲」、ゲームやアニメが原作の2.5次元舞台、芸術、文化活動というもの、その多くが二次創作ではなかろうか。
それらは時にパロディやリメイクと呼ばれたり、目的や表現の仕方も様々ではあるけれど、その根底には、人々の「もっと楽しみたい」というシンプルかつ際限のない欲望と、「自分ならこうしたい、こう出来る、驚かせたい」という表現者の熱量があり、それらが融合して、あらゆる作品が新たに作り上げられた。そうして人間の文化、芸術というものが積み上げられて行った。
人々を楽しませるもの、喜びを感じさせるもの、人間が人間らしく生きられるために欠くことのできないもの、それは衣食住だけではなく、日々の生活と地続きであって、すぐ隣りにあるものだ。人間は、どんな状況にあっても、常にそれらを求めてやまなかった。娯楽が少なかった時代、その渇望は現代の比ではなかっただろう。
ただ、現在の日本がそのことを大切にする社会かというと、巨大な疑問符がつく。それは人間らしさを希求しない社会なのかもしれない。
ちなみにキリスト教(及び仏教)における二次創作の最高峰は漫画「聖⭐︎おにいさん」(作・中村光)と私は思っている。