倒れる、斃れる〜「ヴェニスに死す」
常日頃自分の心に住まうA氏(前回参照)には、自分のみならず根強いファンが多い。
ある時、同じA氏好きである友人が、自分で書いた絵を見せてくれた。
見た瞬間、自分は文字通り倒れ伏した。
そして、数分間、そのまま起き上がれなかったのである。
その絵は、ほんの一瞬しか見ていない。脳内にあるのは、残像であって、その記憶である。
絵柄は、A氏の上半身がさらりとしたタッチで描かれており、ベッドの枕に本人が顔を半分埋めながらもこちらを向き、微笑みながら腕を伸ばしている、というものである。その腕の先に最愛の恋人がいるであろうことは言わずもがな。
昔のTV番組で、憧れのアイドル(確か沢田研二だった)にステージ上で会ったはいいが、気分が悪くなってその場から離れる、というファンの姿を見たことがある。自分の心境は、正にそれであった。
そして、トーマス•マンの「ヴェニスに死す」にも同じシーンが出て来るのである。
主人公は高名な作家で(マン自身の体験を元に書かれている)、旅行先のヴェニスであるポーランド人の美少年と出会い心奪われてしまう。
主人公も少年も同じホテルに泊まっており、食事どき、ホテルのそばの海岸、外出の行き帰りなど何かと顔を合わせる。主人公はそのたびに少年への思いを募らせ、日々少年の姿を追い求めるようになる。
二人のあいだに、物理的な何かが起こるわけではない。ただ少年のほうは主人公の存在を認めていて、しかしそれに対する少年の考えは全く述べられていない。ただ主人公を視界に入れ、少なくともそれを拒否する素振りはない。
これはもはや罪である。少年は意図しないところで主人公を振り回しており、その人生を支配してしまっているのだから。
そしてある夜、主人公は、少年がふと見せた微笑にやられてしまうのである。何の前ぶれもないままに。
「ショックを受けた」主人公は、そのショックのあまり、その場を立ち去る。ここでようやく、この言葉が出てくるのだ。
「俺はお前を愛する」
主に冒頭、芸術と主人公の生き方を長々と書いてあり、この辺りは興味のない読者にとっては正直言って退屈な部分ではある。少年と出会ってからは、美とは何か、パイドロス(←このあたりは非常に面倒になるので省略)を引っ張り出して延々と説教口調で語る。少年の美、それを讃美する心境について、語り出したら止まらないという感じである。
それなのに、「好き」あるいは「愛する」「恋する」とはどういうことか、自身の言葉では語らない。
恋とはある意味、敗北なので、延々と芸術に関して述べたところで、そんなもん知るか、好きなものは好きなのだ、理屈じゃない、と言い切る潔さがないのであろうか。言い訳するな、すぱんと負けを認めろよと言いたくなる。
言い訳ばかりしている人間は、格好よくはない。しかし主人公は少年を恋するあまりストーカーと化し、あげく恋への執着に若返りたい一心でホテルの美容室へ通い、化粧を施してもらうのである。格好良さ云々どころか、これはもう滑稽、グロテスクでしかない。
しかし主人公はヴェニスに向かう船中で似合わぬ若作りをした老人を見ており、嫌悪を覚えている。いまやそれは自分なのである。
それを自覚してから、ようやく主人公の葛藤が遅まきながら記されていくので、やっと認めたか、という感じがしないでもない。
次第に、ヴェニスはコレラに侵されていく。主人公はこの死病の流行を先んじて知りながら、ヴェニスを去ろうはしない。少年がいるからだ。そして少年とその家族にこの土地を離れるよう忠告しようと考えたが、伝染病の蔓延で秩序が崩壊しつつある中でこそ自分の恋が保たれることを優先し、忠告をやめた(その夜、主人公は狂熱的な悪夢を見る)。このあたりは、もはや分別というものも消えた感がある。自身もコレラに侵されつつあるためか、老いのせいか、恋のためか。
主人公が海岸で絶命する直前、間もなくヴェニスを離れようとする少年は、いつものように無邪気に海岸で遊んでいる。互いに同じ場所にいながら、必然的に正反対の方向へ進んでいく、その対比、落差は哀しい。
少年の美にあてられた主人公は、一度は自力でその引力からどうにか逃れたものの、その力も尽きた時、文字通り斃れた。
理性と権威を、生涯の終わりにその対極みたいな恋愛感情によって剥ぎ取られ、翻弄された挙句死ぬ、いい死に方ではないかと思う。どう死ぬか、は、どう生きるか、ということなのだから。
件の、絵を見せてくれた友人は、またいつか見てもらいたい絵が描けたら連絡をくれるという。
その時が楽しみでもあり、また恐怖でもある。この友人は、日ごとに画力がレベルアップしており、原作に近づいてくるのでこちらとしては落ち着かなくなる一方である。
また自分は、倒れる日が来るのだろうか。そして、それが度重なって斃れる日があるのだろうか。
それはそれで、本望なのだが。