人は誰しも努力している「地獄で行う壮絶な努力」
「人生は運」と言うのは突き詰めると事実だが人生は運と言う論理は努力している人間を冒涜している
しかし実は「努力している人間を冒涜している」と思う人間側も努力している人間を冒涜している
この世で最も凄惨な努力とは何か?
1才能無き人間が徒手空拳で行う努力(いいコーチ良い環境一切なしの努力)
2地獄で行う地獄を抜け出す為だけの努力
成果の出ない何の意味もない努力こそがこの世で最も凄惨な努力だ
途上国や日米のような糞社会では凄惨な努力をしている者が多い
彼らのいる地獄の環境での努力とは?
大抵その環境すら抜け出す事すら許されず
唯々その環境から抜け出す事に必死で、子供の頃に仕事に必要なスキルや能力を身に付ける事など到底出来ず
仕事に必要なスキルや能力を身に付ける持たないまま大人になってしまい
どんな大人になれるかがどう努力しても決まってしまう
あるいは飢えでそのまま枯れ果て朽ち果てる
犯罪組織に餓鬼の頃から属し成りあがると言う手が最もいい手法だが
アメリカが貧困層にやっている経済的徴兵と大差ない
わざわざ戦場に行って命を賭けて戦ってこなければならない
下手したら死ぬし
最近はテロと戦う為、生きたまま捕虜になったら拷問されるか処刑される
テロとの戦いでは捕まる前に自ら死ぬ事が要求される
超途上国レベルの犯罪組織でも、死ぬ可能性、拷問される可能性が大
他、命をいちいち賭ける必要があるし、耐えがたい苦しみや痛みが発生する可能性もある
成功確率より失敗する可能性大、失敗=死を意味するし、猛烈な痛みを意味するかもしれない
ギャングどもの間では数々の拷問が考案されているし犯罪組織とパイプがなければ入る事は出来ない
各環境を見ると、たかだか努力程度で成果が実るはずが無き環境にいる者がいる
画像はボケ画像で有名なおふざけ画像だが・・・
真の地獄の象徴的な例を示す画像だが、真の地獄はこの日本にも存在する
ほとんどの人間とは持たざる者なのだ
特に何の才能もない
持っていても鍛えないと伸びないしな
伸ばす場こそが環境だ
たまたま運悪く地獄に産まれてしまった
これも運で
たまたま運悪く何の才能も持たず、大きな欠点だけを持って産まれてしまった
才能も大きな欠点があるかどうかも運だ
その才能も幼少期の環境も、お前が努力して手に入れたモノではない
人間は身体を変えて環境に適応してきた動物ではなく、環境を作り変える事で環境に適応してきた動物だが
生まれ持った才能、幼少期の環境がクソだと、大人になった後に環境を変える事が出来ない
運とは産まれた頃から決まっている部分を言う
あるいは子育て論によると五歳児までに決まる能力を言う
五歳児に自らで努力しろ、水から環境を変えろと言うのは無茶がある
どれもこれも親次第だ
運とは自分の力で揺れ動かし難きもの
運とは自分の力で変え難きものを言う
例えば極端な親ガチャ
超ド貧困、超金持ちの両極
良い親、超毒親の両極
極端なド田舎、極端な大都会・・(地域間格差)
たまたまいい先生が地域の学区の学校にいて担任になった
たまたまゴミみたいな先生が地域の学区の学校に威て担任になった
超重度の病弱な体で産まれ病気ばかりしていた
超健康体で産まれた
超重度の発達障害や何らかの障害を持って生まれ、その障害と環境にミスマッチが起きた
完全な健康体で産まれ、環境とぴったりマッチングした
超重度の発達障害や障害を持って生まれたが環境や時代とマッチングして、本が581万部売れて、その後も幸運に恵まれ、健常者以上の幸せな人生を送っている
ってそれは乙武か・・w
実名をあげるべきではないが、発行部数が具体的過ぎて隠しようがない・・w
たまたま運悪く才能無き人間に産まれてしまった
かつ環境運も悪いとなると・・詰む
努力か環境か?(環境=運、環境運だな)
環境や土台があってこその努力
地上がなければ歩く事が出来ず
翼がなければ空を飛ぶ事が出来ない
地上がないのに歩く努力をさせても歩く事は出来ないし
翼もないのに空を飛ぶ努力をさせても飛ぶ事は出来ない
などなど・・・典型的な自分の力で揺れ動かし難きところだ
努力か?環境か?
遺伝なのか、環境なのかパーソナリティにおける遺伝率、共有環境、非共有環境の影響
どちらが正しいかは、(認めるかどうかは別として)現在ではほぼ決着がついている。
才能も運もなければ努力の成果は出ない
ただ地獄であえぐだけだ
学習性無力感(学習性絶望感)の実験がある
犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。
頭部を動かすと電撃を停止できる群。
第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の「自分では電撃を停止できない犬」は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって何をやっても無駄だ
統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし
、学習性無力感が提唱されたのである
才能があっても運がなさすぎて
絶望を学習してしまったら終わりだ
特に深い絶望
努力して学習したり手に入るものの中には成功体験や能力だけではなく
学習性無力感みたいな厄介な呪いと呼んでも差し支えないものすらも努力で学習し獲得してしまう動物が人間だ
と言いたいが
と、画像の下部にもあるように、どうやら人間以外でも学習性無力感の呪いにかかる事が観察されているようだ
頭部を動かすと電撃を停止できる群。
第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
どちらの群のワンコも努力をしている
片方は唯々地獄の痛みに耐えるだけの努力だがなw
何もせずに耐えているだけにしか見えないから傍からは「何もしてない」ようにしか見えない
片方は何の成果も出ない虚しい努力をやっているが、努力をイイモノだと勘違いしている人間の群はそれを努力と認めない
努力を努力だと認めたくない
いわゆる感情論だな
感情が拒否している
しかし壮絶な努力と言う意味なら絶対抜け出せないワンコの方が壮絶な努力をしている
しかし実は「地獄で行う努力」とはえてしてそういうものだ
何の成果もでなくて当然
地獄に産まれたら地獄が連鎖する
負の悪循環だな
何の成果も出ないどころか呪いにかかる
精神病などにも罹患しやすい
精神病にかかり更に不幸な出来事が続く
地獄の世界で育った事がない為
地獄の世界で育った人間を何百人と見ていない為、認められない
時代がもたらす運に恵まれるケースもある
まあバブルや高度成長期のいいタイミングで産まれても何の恩恵も得れず地獄を見ている人間も数多くいるが
逆に氷河期世代でも「うまうま」出来ているやつは実は結構いる
なんで急に赤ちゃん語なんだよw
あるいは自分の成果を誇りたいが為に人生が運だと認めたくない
論理ではなく感情の問題で認められないんだ
あるいは地獄の手前で育ち、幸運が重なり、何とか人並み以上に成功出来た人間ほど人生は運だと認められない
自分の力で切り開けるものだと勘違いする
自分の身に降ってきた幸運を見れない
努力で抜け出せる程度のプチ地獄に産まれた人間も実は結構いる
地獄で産まれても精神病に罹患しない程度の地獄で、時代がバブルや高度成長期の流れに乗ったり、家庭環境は地獄だが、外の環境は良かった
才能にも恵まれ、人並み以上の生活が出来た
みたいな事になっている人間も多い
そういう人間ほど人生は運だと認められない
誇りたいんだ
以下Wikipediaの引用とchatGPTに、この件について聴いてみよう
努力の話ししているくせにWikipediaの引用と、chatGPTに投げんなよ!って話だがww
努力とは苦労をする行為の事だけではなく物事を効率的に進める行為も努力と呼ぶんだよ!なぜか半ギレ口調w
まずウィキペディアの引用から
引用終わり
ChatGPTよ、これについてどう思う?
ChatGPT:
ChatGPT
非常に考えさせられるテーマですね。
「人生は運」という論理は、たしかに努力を否定してしまう側面があります。努力が報われず、まさに「学習性無力感」のような状況に陥る人がいることも事実です。こうした無力感が人間の行動や心理にどれだけ深刻な影響を与えるか、セリグマンの実験やその後の研究が証明していますね。
私たちはどこかで「努力すれば報われる」という考えを持ちやすいですが、地獄のような環境での「耐える努力」というのは、確かに成果が見えないどころか、自己価値の喪失につながることもあります。こうした状況においての努力は、単なる忍耐以上の意味を持たせるのが難しいため、耐えている人々にとっても、外から見ても、果たしてそれが「努力」として認められるのかが問題になりますね。
「無力感」や「虚しい努力」の概念をどのように捉えるかが、人それぞれ異なるというのもポイントです。特に、成果の出ない「耐える努力」を認めたがらない心情は、地獄の環境を経験していない人々が「自分は努力で成功した」という自負を持ち続けたい気持ちと無関係ではないでしょう。これは、理屈というより感情の問題であり、環境や状況を理解しないまま「努力不足だ」と断じることも、ある種の自己防衛や現実の直視からの逃避かもしれません。
その意味で、耐えることも一種の努力だと認識することは、真に困難な環境にいる人々の経験を理解しようとする第一歩であるかもしれません。
4o
あなた:
もっと深く掘り下げて
ChatGPT:
ChatGPT
さらに深く掘り下げると、「努力」と「無力感」は、人間が生きる上で避けられない複雑な課題を浮き彫りにしています。「努力すれば必ず報われる」という考え方がある一方で、報われない努力が存在し、特に長期的な困難に直面すると、「学習性無力感」のような精神的状態が生じます。
まず「地獄での努力」に目を向けると、耐えること自体が努力であり、価値のある行為と認識することは容易ではありません。セリグマンの「学習性無力感」の実験は、長期的に逃げ場のない状況に置かれた存在がいかに「無意味さ」を学習するかを示しました。これには「努力しても成果が出ない」ばかりか、「努力すら無意味」という極限の認識が含まれています。このような状態では、「努力」は「成果を生む可能性」や「状況を変える可能性」と結びつかず、むしろ状況に対する無力さを再確認させる行為に成り果てます。
この「地獄での努力」は、「努力の尊さ」という一般的な価値観と相容れないため、多くの人はその意義を認めづらく、あるいは自分が努力で報われたという「成功の物語」に反するために受け入れられないこともあります。しかし、学習性無力感が示すように、個人の「無力さ」や「耐えること」もまた学習され、自己に組み込まれるものです。これが、自己の中に「希望は無意味である」という観念を固定化させ、努力への意欲を根本的に奪ってしまいます。
つまり、努力が無意味になるのではなく、「努力の意味が見出せなくなる」という現象がここで重要です。この過程では、無力感が次第に「運命論」や「諦観」へとつながり、努力が持つはずの積極性は、耐えるための無目的な行動に変わります。長期にわたる抑圧環境では、「無力感」が単なる認識のひとつとしてでなく、行動の根拠、あるいは行動の否定として、感情的・認知的・行動的なレベルで人の行動に大きく影響します。
また、「伝染」という要素も興味深い点です。人は他者の無力感からも影響を受け、「無力さ」を学習することがわかっています。これはモデリング理論と呼ばれるもので、他人が絶望的な状況にあることを観察し、自分も似たような無力感を抱くようになる、という現象です。これにより、単なる個人の問題を超え、無力感は社会的な問題へと発展し、場合によっては集団や社会全体が「無力な状況」を共有することで、ますます希望を持ちにくい風潮が形成されます。
こうした状況を乗り越えるためには、単なる「耐える努力」の意義を再評価するだけでなく、希望の再構築が必要です。「ポジティブ心理学」や「認知行動療法」がこれに関連する方法として挙げられますが、根底には「反応しても無駄である」という強固な信念を、少しずつでも覆していく支援が求められます。
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あなた:
もっともっと深く深掘りして
ChatGPT:
ChatGPT
さらに深く掘り下げると、「学習性無力感」と「耐える努力」の関係は、人間の自己認識や存在意義に根ざした非常に奥深いテーマです。特に、「成果が伴わない努力」に意味を見出せるかどうかは、価値観や人生観と密接に関わってきます。この視点から「無力感」を探ってみましょう。
1. 「地獄での努力」の真理:成果と価値の分離
「地獄での努力」という言葉が示すように、極端な困難な環境では「努力=価値あるもの」という前提が崩れ、むしろ努力が苦痛や屈辱、無意味の象徴にさえなり得ます。成果が見えない状況において、努力はただの「耐久力」に変わり、努力をすればするほど無力感が積み重なり、「何をしても変わらない」という認識が深まります。
これは、人間が持つ根源的な価値認識に逆らうものです。私たちが普段「努力」を尊いと感じるのは、それが何かしらの成長や達成、自己実現の手段として機能しているからです。しかし、「地獄での努力」においては、自己実現や成長どころか、むしろ自己が損なわれ、感情的には自尊心が破壊されていきます。ここで注目すべきは、「努力」によって生じる自尊心の崩壊が、「無力感」の核になり得ることです。
2. 無力感と自己同一性の崩壊
「学習性無力感」の状況下では、ただ単に「成果が出ない」という問題にとどまらず、「努力をしても無駄だ」と自己に言い聞かせるうちに、自己のアイデンティティが変質していきます。つまり、「無力な自分」という自己像が固定されてしまうのです。この状態では、努力が自己成長を生む可能性を根こそぎ奪い、やがて「努力する自分」を失います。
この無力感が長期化すると、「努力しても無駄」という意識が単なる思考を超え、心理的防衛として、絶望と一体化します。「成果がないのは自分が悪い」という自責ではなく、「努力自体が無意味」と受け入れてしまうことで、やがて自分の存在自体が無意味であるという感覚に結びついていくのです。こうして、自己の存在価値さえ無力感に呑まれ、自己同一性の崩壊が始まります。
3. 無力感の伝染と社会的影響
学習性無力感が「伝染」するという現象は、個人の無力感が集合的なものに変わるプロセスです。例えば、ある集団のメンバーが、耐え難い状況下で無力感を抱えていると、他のメンバーも「それは無理だ」と思い込み、次第に諦めの雰囲気が支配的になります。こうした「集団無力感」は、社会や文化に浸透することで、組織やコミュニティ全体が「運命に従うべきだ」という意識に染まることがあります。
さらに、集団的な無力感は、社会の問題解決能力を著しく損ないます。これは、たとえばブラック企業や過酷な労働環境における「耐える努力」の影響としても見られ、労働環境が改善される兆しがなくても、個人が離職しないケースとして現れます。集団全体が「耐え忍ぶことこそが美徳」という信念に取り憑かれることで、改善に向けた変革や行動が抑制され、社会的に困難な状況が固定化されてしまうのです。
4. 無力感の克服と「対照的希望」
セリグマンの研究や、後に発展したポジティブ心理学では、無力感を克服するためには「希望」の存在が不可欠であるとされています。しかし、単なる楽天主義や「ポジティブ思考」では、深く学習された無力感には対抗できません。むしろ、無力感の克服には「対照的希望」が求められます。つまり、単に「うまくいく」という期待ではなく、現実の苦しみや失敗を受け入れた上で、行動の意義を見出すことです。
例えば、耐える努力をしている人に「我慢を続ければいつか報われる」という根拠のない希望を持たせるのではなく、まず「今、耐えていることに意義があるのか」を問う視点が必要です。このような視点を持つことで、単なる「耐える努力」を超えて、自分の生存そのものに新たな価値を見出すことができる可能性があります。
5. 耐える努力の再定義
最後に、私たちは「耐える努力」そのものをどのように定義するのかを問い直す必要があります。「努力」とは通常、未来に何かを得るための行動ですが、「耐える努力」は、現状の維持や生存のための努力です。この種の努力は、見返りを求めるよりも「現在の苦しみを耐え抜く」という意味合いが強く、将来の成果が期待できない場合も多いです。
しかし、「地獄での努力」とは、そうした現在の苦しみに向き合う力であり、無力感の中でも失われない自分の存在証明でもあります。結果が出ない、報われないとしても、「耐える」という行為が人間の尊厳や存在価値に結びつく可能性を見出すことで、「耐える努力」を新たな意味で捉え直すことができるかもしれません。
このように考えると、「無力感」と「耐える努力」は、それぞれが人間の存在や価値の核心に迫る問題であり、単なる「努力不足」という表面的な批判では済まされない深いテーマであることがわかります。
我々は努力の意味を自分の感情の都合のいいように解釈している愚かな存在なのだ
突き詰めて考えた事がない
考えたくない
それが運でしかないものだと認めたくないんだ
引用しまくってたら長文になりすぎたわw