真実より大切な事実という平等


 真実と事実、どちらが重要ですかと聞かれたら真実と答える人が多いのではないでしょうか?

 しかし、昨今の真実という言葉の使われ方を考えると真実という言葉に気を付けなくてはなりません。そして事実というものをもっと尊重して考える必要があると思うのです。
 
私が言いたいことは
「誰かの思惑が乗った真実ではなく、誰にでも平等な事実を大切にするべきである。」
です。
 
ではそれぞれの言葉について意味を考えていきましょう。

 簡単な方の事実から考えていきます。事実は、起こったことや現在の状態を表す言葉です。嘘や偽りがあれば事実ではありませんし、嘘や偽りが無ければ事実が変わることもありません。
 またデータや数値、言葉で表すことができます。そして正しい事実であれば誰から見ても同じものであり、それが変わることはありません。

 では、今回問題としている真実について考えていきます。本来の意味であれば嘘や偽りのない本当のことであり事実とそう変わりません。
 しかし、現在使われている真実はすごく簡単に言いますが
 「いくらかの事実に個人や集団のお気持ちを乗せたもの」
 
だと感じるのです。

 そして何が問題かというと、

 このお気持ちが最重要とされることで本来変わらないはずの事実が歪められたり無視されたりすることなのです。

 またお気持ちという曖昧なものに左右されることで
真実はいくらでも形を変えてしまうのです。
さらに真実という言葉を悪用する人がいることなのです。
 
 どうしてそんなことが起こるのか、そのためには真実の使われ方が変わった理由や、真実を事実より重要と考えてしまう理由を考える必要があります。

 真実で想像するものが手掛かりになります。昔であれば、真実の口が有名ですね、嘘をついたかどうかが重要視されていますので本来の意味と変わらないですね。
 ですが真実の口と聞くとローマの休日のシーンが思い浮かぶかと思います。実際にあの映画には真実と嘘がテーマに占められている割合が多いと思います。

 まず映画の中での事実は嘘をついてローマの休日を楽しむ二人と、エンディングに起こったことでしょうか。次にこの作品における真実は嘘をついていることとエンディングに何を思って行動したのか、その心情の部分と取れるのではないでしょうか。
 真実というよりは本心と言った方が言葉として正しいとは思います。しかしローマの休日では真実の口のシーンを初め、いくつもの嘘が物語の鍵になっています。

 ですから嘘との対比として、ローマの休日における真実は休日を一緒に過ごした二人のエンディングシーンでの行動とその心情と表現しても咎める人は少ないかと思います。

 こういった表現が真実という概念に心情といった意味合いを重ねていきました。しかし覚えておいて欲しいことは、行動とその心情を合わせたものを真実とするならば、エンディングに起きた事実に対する感情はそれぞれにあり主人公とヒロインには別々の真実があると言えます。
 つまりエンディングには主人公とヒロイン二つの真実があると表現ができます。
 個人的にはそう表現した方がかっこよく感じます。

 まとめると真実という言葉が使われ続けることで事実に心の中にある大切な気持ちを足したものと捉えられるようになっていったと考えます。
 しかし、そう捉えるならば真実は一つだけには絶対にならないのである。
 
 それでは真実が二つになってしまったところで次に有名な真実のついた言葉について考えましょう。今では真実と聞いて真実の口よりも、この言葉を思い浮かべる人の方が多いでしょう。

「真実はいつも一つ」

 そんなことは当たり前と思うとともに、一つだけといわれて真実が何か重要なもののように思えませんか?
 推理ものにおいてすごく分かりやすくていい言葉だと思います。

 推理ものでは明かされていく真実がとても大切です。先程の話と重複するところもありますが推理ものの真実について考えていきましょう。

 推理ものにおける真実は、どんなトリックで殺されたのか、登場人物の行動と心情、犯人が事件に至った心情や理由だと思います。

 逆に事実は、殺人事件が起こったこと、捜査の過程で発見されていく証拠とトリックの仕掛け、登場人物が何をしたか、そして犯人が誰であるかである。

 大抵最後にみんなが集められ説明がされていきます。トリックの種明かしと、それぞれの心情が赤裸々に語られていき、犯人の動機が事細かに明かされます。ですから最後にこういう事件だったという真実が一つへまとめられるのです。

 それなら問題がないと思ったかも知れませんが、
 ここで問題になることは三つあります。

まず真実という言葉を必要以上に大切に思ってしまうことです。推理ものにおいて大切にされるのが真実です。そして、その大切なものがいつも一つだとしたら恒常的であり絶対的であり崇高ですらあると感じられませんか?

 そして次は先程も書いたように、その真実を事実の+αとして感じてしまうことです。そういった意味の言葉として推理物だけでなく様々な作品やメディアに使われ続け、刷り込まれていくのです。
 だから辞書には似た言葉が書いてあるはずなのに、事実と真実を比べたときに真実の方が大切と思ってしまうのです。それが問題の始まりなのです。

 それから最後に真実は正しく一つだけと思ってしまうことが問題なのです。実際は最後に集まった登場人物の真実が一つにまとめられただけであり、途中でいなくなった登場人物にとっては別の真実があるのです。
 
 私は色々な創作物、推理もの、そして真実という言葉が使われることを否定したいわけではありません。作品内であれば自由に使って問題ないと思います。ついでに言うと真実という言葉を軽々しく、気安く使っているのは新聞やテレビといったマスメディアだと思います。真実も正義と同じように、慎重に使わなければならない刃の付いた鋭い言葉なのにです。
 
 今一度、真実という言葉に対して考えてみて欲しいのです。
 真実を事実に人の心が上乗せされた上位互換だと考えるのならばそれは間違っているのです。

 もし事実に何か事実以外のものが足されたのなら、それは事実ではなくなってしまうのです。全く同じ平等なものにはならないのです。普遍ではなくなってしまうのです。

 ですから、現実で使われている真実がいつ何時でも必ず一つであり正しいと思ってはいけないのです。

 そして現在、多くの場所で使われている真実という言葉はいくらかの事実にお気持ちを乗せたものであり、
 事実すら歪めてしまう力を持っているのです。
 そして、それだけの力を持っているのにお気持ちは気分で変わってしまうのです。そういうあやふやなものを指針にするのではなく、
 誰が見ても変わらない誰にとっても平等である事実を使って物事を考えるべきなのです。

お気持ちで変わる真実と誰にでも平等な事実

 今回は事実を大切にして欲しいということで真実という言葉を使いましたが、実際には数多くの言葉が似たように歪められています。それを理解した上で言葉に騙されることなく考え行動して欲しいと思います。

 事実を無視することはできないのです。事実を歪めてはいけないのです。どんなに耳障りがいい言葉を使っていたとしても、それをする人は信じるに値しない人です。

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