エル・カンターレに出会って


『復活の法』   大川隆法著


第5章 生命の永遠について

人間の魂は永遠不滅の命を持っています。
光に満ちた人生を生きた人は、この世を去った世界においても、また光に満ちた人生となり、長い幸福が続いていくことになります。
他方、生命を有権のものと思い、この世で、仏の子、神の子として、充分な使命を果たさず亡くなった人にとっては、死後の生命が永遠であること自体が、一つの大きな厳しい罰でもあるのです。
仏教では地獄という世界について説かれていますが、仏教の地獄は、「いずれ、時期が来たら救われて、天上界に還れる」という意味合いを持った世界です。
ところが、キリスト教における地獄は、「永遠に救われない世界」という描かれ方をしていて、「地獄に落ちたならば、もう最後である」という世界です。
キリスト教的に、「善か悪かでスパッと分け、それで終わり」ということではなく、「不合格になっても、まだ〝追試〟がある。救われる機会は何度もある」という考えです。そのように、「死後の世界においても、まだまだ救いの活動が続いている」という思想があるのです。
したがって、仏教はキリスト教より霊界事情に詳しいと考えてよいでしょう。
「人間の生命は永遠である」ということを、地上の人たちが、理解しているかというと、「ほとんど理解できずにいる」というのが本当のところでしょう。
「仏や神という存在があるのであれば、もう少し分かるようにしてくれないのか、誰にでも分かるようにしてくれたなら、それほど迷わずに済むのに、わからないようにしておきながら、死後に裁きがあるというのは、フェアではないし、科学的合理的ではない」という考えもあると思います。
ただ、現実に霊たちの姿が見えたり、声が聞こえたりしては、この世の人間が地上生活と全うすることは極めて厳しいのです。「霊たちに見られている」ということが分からないようになっているので、この世の人間は、プライバシーを保つことができ、いろんなことができるのです。
それが「ガラス張りの状態で見られている」と思うと、たまったものではないでしょう。
テレビドラマなどで警察の取締室に「こちらからは見えないが、向こうから見える」というミラーガラスがついております。(心の中で思ったこともみられている)
あの世とこの世の関係は、実は、そのようになっています。
ただ、そういう世界を忘れてしまってはいけないので、霊能者や預言者、宗教家など、例外として認められた一部の人が出て霊的な世界について説き、それを広げるのです。
何かするたびに、いちいち、あの世から声が聞こえたり、あの世の人の姿が見たりすると、この世の人間の主体性がなくなる面もあります。この世の人間としての責任や自覚を持ち、主体的に判断しながら生きることは、かなり厳しいでしょう。そういう両面を考慮して、このようなかたちになっているのです。
信じるも信じないも自由ですし、信じた結果、どうするかも自由ですし、信じない結果、どうするかも自由なのです。しかし、最後には、そのすべてについて、講評、判定が行われることになっているわけです。
この世の寿命は短いものです。そのなかで人間はいろいろな経験をしています。
「四苦八苦」といわれる苦しみ、「誕生し、老い、病気になり、死ぬ」、愛する人と別れる苦しみ、嫌な人と会う苦しみ、求めても得られない苦しみ、魂が本来の自分であるにもかかわらず、肉体の感覚に支配されて、肉体を自分自身であると考え、「五官を幸福に満たすことが、ほんとうの幸福なのだ」と思う、迷いや幻想があります。
古くから宗教がずうっと、心の教えを説いているわけですが、人々は、なかなか納得しないのが現実です。
自分の魂の本来のあり方、本来の姿というものを決して忘れてはいけません。
「新しい宗教としては、これからも日進月歩するであろう科学技術文明そのものを否定するかたちの宗教にはしたくない。世の中が便利になるのは結構なことである」ということです。
ただ、その高度な科学技術文明に釣り合うだけの霊性、霊的なバランス感覚は必要であると思います。この世に生まれ変わった人の多くが地獄人口へと転化していく可能性は、極めて高いと言わざるを得ません。(この世が全てと思い、神様、仏様がいないと思い、悪いことをしたり、考えたりするため)
そういう時代であるからこそ、霊的な思想を信じる、人々の裾野を広げていかなければならないのです。「霊的な思想は、決して古代だけのものではなく、現代にも必要なものなのだ」ということを伝えていく使命が、幸福の科学に課せられているのです。
そういうことを心に深く誓わなくてはなりません。


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