エル・カンターレに出会って


『復活の法』   大川隆法著


第3章 天国へ還る方法

人と接していて、その人の悪いところしか見えなくなってきたら、自分の心は地獄にあると思わなければいけません。
実際には、悪く見えて当然の場合もありますが、そのときには、「行いを裁いて人を裁かず」という考え方が大事です。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、「他人のなかに、よいものを見出す」ということは、霊的には非常に大切な考え方です。
他人の現在の言動を悪しきものと見るのは簡単ですが、その人の人格、人柄、魂のなかにあるもの自体を悪く思わずに、言動と分けて考えることは、難しいけれども大切なことなのです。
簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別がついていないのです。善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。
実相と仮相(言葉や行動など表面に出てくるもの)の区別が大事です。
たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔していると家が燃えてしまいます。その時は「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。
これは表面に現れた行動の部分について、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものになっていきます。
ユートピア建設という価値観から見た、一元論・二元論の考え方には、二つの道があります。
一つは、「善なるものを、もっと伸ばしていこう」という観点であり、
もう一つは、「真理価値に反するものを、できるだけ抑えていこう」という観点です。
両方とも、実際にありうる考え方であり、また、なければならない考え方です。
子供の教育として、一つは、「ほめる教育」と「叱る教育」がありますが、この両方とも必要なのです。
さらに、もう一つ考えるべきことは霊的観点からの教育です。「人間は、本来、仏の子であり、霊的存在なのだ。その点において、人間には仏と同じような光があるのだ。人間はダイヤモンドの原石なのだ」という考え方を教える必要があるのです。
本来の輝きが、もっともっと出てくるように、導いていく必要があります。
そのためには、「輝きがある」ということを認め、その輝きを増す方向に導いていく方法と、輝きを邪魔しているもの自体を取り除いていく方法と、この両方があるのです。
一元論と二元論について、私は相対的二元論に近い考え方をとっています。
善悪の二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点では悪と思われることも、長い時間の流れのなかでは、善に変わっていくこともありうるという考え方です。
たとえば、「かつて大天使であったルシフェルが地獄に堕ちてサタンになっている」という現状を、現時点では悪として表れています。
ただ、一億年という単位ではなく、もっと大きな時間の流れで見たときに、どのように見えるかというと、一概には言えないものがあります。
悪として表れているもののなかには、一つの大きな教訓があるように思えます。そして、「その教訓が存在するがゆえに、現在、そのような悪があるのではないか」と推定される面もあります。
これは根本仏の巧妙な教育法であり、「大天使が地獄に堕ちてサタンとなり、現在も地獄にいる」という事実自体が、実は八次元霊や九次元霊を強力に教育しているのかもしれないのです。
そういう観点から見たときに、何とも評価しがたい面があることは確かです。現象として見たときには、善悪が表れてくることがありますが、「究極のユートピアという観点から見たときに、さまざまな考え方が出てくる」ということだけは押さえておいてほしいのです。

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