エル・カンターレに出会って
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『光ある時を生きよ』 大川隆法著
第3章 「人生に勝利する詩」講義
「人々よ しかし 絶望するな
この世に不可能なことは 何もないのだ
人間は空を飛んだではないか
人間は月を歩いたではないか
人間は太平洋の底に潜ったり
地下を打ち抜いては 鉄道を通したではないか」
自分というものが虚しいものであり、何らも成し遂げる必要もない人間であると思ってはならない。その身そのままで神の子であるが、神の子はまた、偉大なる工夫の才能を与えられているということを知りなさい。
すなわち、みなさんがその身そのままで神の子であり、燦然たる光を放っているという事実を認めるということは、何もしなくてよいということにはつながらないと言っているのです。
「光は光、されどその光をさらに強くせよ。さらに遠くまで飛ばせ。さらにさらに広く、さらに高く、さらにはるかなる世界まで。それを工夫するのが人間の使命であり、その前に不可能はない」こう言っているのです。
「人々よ 無気力になるな 否定的な心になるな無気力からは何も生まれない 否定からは肯定は生まれない 強く打ち出せ 自分の姿勢を
強く肯定せよ 自分の将来の夢を
私はできるぞと宣言せよ」
絶望を止めたとしても、また次なる心が人間には出て参ります。その際に、無気力、否定的な心というものを、どう考えたらよいでしょうか。
神が何ゆえに我ら人間を創られたか、その根本を忘れてはなりません。人間を創られた理由は、その人間を生かしめ、自らに代わって大いなる仕事を成し遂げてほしいという願いがあったからではないでしょうか。
しかるに、無気力であるとはいったいいかなることでありましょうか。それは神の子であるという事実を忘れ去っているということではないでしょうか。
自分にはできないというような自己限定が、みなさんの心にどれほど曇りをつくっているか、よくよく反省していただきたいのです。そのような否定的な心は、自分をかわいそうだと思う気持ちで固めているから出てくるのでしょう。
しかし、我らは我らの命を我ら自身のために使っているのではない、という前提をもう一度ふり返る必要があるのです。これは神の命、これは神の仕事ーー。それを知らなくてはなりません。
そうであるならば、肯定しかないではありませんか。
目の前に立ちはだかり、自分の道をふさぐように思われる事物や環境や人は、あくまでも自らの弱気が映しだしている映像にしかすぎない、ということを知らねばなりません。
自分自身それをまっすぐに進めてゆくことが恐いから、勇気がないから、誰かに否定してほしいと願っているのではないのか。誰かに妨害をしてほしいと願っているのではないのか。そういう卑怯な心になっているのではないか。それを知りなさい。
本当に自分の使命を知り、そして力漲ったときに、世の中には協力者以外の存在はいなくなるのです。協力者でない者が続々と現れてくるということは、心のなかに否定という名の映像を映したいと思っているということなのです。
「私はできるぞと宣言せよ」。この言葉の力強さを知っていただきたいと思います