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Still

この二年間、自分自身との対話を、幾度となく試みてきた。あなたは誰ですか、どこか痛いですか、もう疲れましたか、本当は何をしたいのですか。喉が枯れるほどの大声で、霧の向こうに山があると信じて叫ぶように。何も、返ってくることはなかった。逃げたいですか、何に縛られているのですか。死にたいですか。返事を待つのに疲れて、虚しくなって、ふて寝した。腕を切ってみたりもした。これもまた、自分に話しかけているつもりだった。どこまで耐えられる?と。けれど、血の赤やぴりりとした痛みが混乱を紛らわせてくれることを知って、依存するはめになっただけだった。対話を、一度諦めた。

生きたくないという感情は、文字通り棺桶の蓋のように重く心身にのしかかる。
気力も体力もなく、起きているときは自殺した人のツイートをひたすら眺めた。眠っているときは楽で良い。何も感じなくて済むから。けれど、ずっと寝ていることはできない。十数時間寝てぱちりと目が覚めれば、その後数時間は眠りにつけない。その間、一瞬一瞬を耐え続けることに、耐えられない。死ぬしかないという考えに陥る。だって、いつも体調が悪くて、興味が湧くこともなくて、ただ目を瞑って涙をじっと堪えることしかできないなんて。生き地獄だ。せんべい布団に身体が沈み込んでいくのを感じながら、今この瞬間を乗り越えることがつらくて、つらくて、苦しい。なのに親に大丈夫と言う私の声色はいつもと変わらないのが不気味だった。世界がのっぺりと、灰色につまらなく見えて、自殺がいちばん美しいものに思えた。

誰かがそこから引きずり出してくれることはない。棺桶の蓋も、私の身体も重すぎるから。けれど、眠っている私の顔を、心配そうに見つめる人がいることは、なんとなく知っていた。毎日毎日、ぴくり、ぴくりとちょっとずつ指を動かしてみて、絶望が少し引いていくのを感じられたら、腹の底から勇気を振り絞って起き上がる。激しい目眩が襲っても、またここに戻ってくるときが、そう遠くないとわかっていても。そういう経験を一度して、ようやく自分と対話できるようになった。適切な声の大きさで、具体的な問いかけをすることを自然と覚えた。返ってくる声はとても小さい。けれど、しっかり耳を澄まして、確かに声を拾って、従っていく。少しだけ、苦しい。これが、痛みと向き合うということなのかな。鏡に映る自分におかしなところがないか神経質に確認しながら進むのを、いい加減やめたい。死なないとわかってもらえないと絶望しながらも、生きる。誰の命にも最初から価値なんてないことを、知っているから。つらくても、ずっとずっと、これを繰り返してゆく。

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