掌編小説 猫に阿片
男が出ていった。
同棲している1LDKアパートの家賃を支払わないので、文句を言ったら翌日いなくなった。家賃は折半だと念書を書かせるべきだったか。置き手紙には「僕を探さないでください」と書かれていた。こういうのはもっと美しいシチュエーションで使うべきものであって、家賃を滞納して夜逃げする人間の台詞ではないと思う。
ふと目を向けた先には猫がいた。二足歩行の茶トラ猫がダイニングチェアに腰掛けて、煙管を燻らせている。その姿は見るからに図々しく、遠慮は微塵も感じられなかった。今どき紙巻たばこさえ珍しいのにキセルか。というより、猫なのに煙草を吸うんかい。
「これは阿片だよ」と猫は言った。猫にまたたびではなくて猫に阿片である。
「アヘンなんて、ここは日本よ?」
「阿片なんて、そのへんで手に入る」
沈黙が流れた。それは深く深く重いものだったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「あの男は、お前の事なんてはじめからたいして好きじゃなかったんだよ」
知ってる。わかってるよ。わかっているから、わざわざ口に出して言うな。
「まず膝を曲げないとジャンプもできないだろう」
黙れ。言いたいことはなんとなくわかるが、意味が伝わらなければなんの慰めにもならんだろう。
「それでも、ほんの少しだけでもいいから、一緒にいたかったの」
一番言いたくなかった台詞がポロっと出てきてしまった。この言葉は、ずっと出なかった涙のかわりに、口元から下へ流れ落ちていった。
なんとなく、これでいいと思った。
その時スマートフォンが鳴った。手を伸ばした瞬間、着信音は切れた。
目を挙げてふりかえると猫はいなかった。部屋には、男が吸っていたセブンスターの匂いが残っていた。
私は煙草を吸う男なんてもう二度と関わりたくないが、この香りは嫌いではない。