家の一番近くのコンビニに牛乳はなかった。二番目に近いところへ行くと、あった。店の前に自転車を止めて誘蛾灯が絹を裂くような音を立てていた。睡眠の質を上げてくれる飲み物とあたたかなアイマスクを買うそばから欠伸が出る。自転車をこぎながら飲む牛乳、ワッフルの味なんてアパートにつくころには忘れている。誘蛾灯が絹を裂く音が、いや違う裂かれていたのは体だった。太陽に消される前にキッチンの消し忘れた明かりが僕たちを誘う。
あるところに一羽のアヒルがいた。 二つの頭が、並んで動く。陽光を受ける嘴は、ひまわりのように、黄色に輝いている。胴体は真っ白な羽毛に覆われて、まるで細やかな泡の塊のように震えていて、美しかった。一方が、があ、と鳴けば、もう一方も、があ、と返す。さも仲良さげである。二本の首が絡み合うように動く。アヒルは双頭であった。 があ、があ。ぐぐ、ぐぐ。ぐわあ、ぐわあ。ががあ、があ、とそんな調子。いつも二羽分鳴いてまわる。 ごはんを食べる。二つの口では、一人前のごはんがすぐに
「スーパーマンになれると思うんだ」 なんていきなりいうから、私は唖然とした。 口に運びかけた生春巻きが宙ぶらりんになる。はたから見たら阿呆の面だ。 彼はなおも続けた。 「つまりさ、いろんなところに分散している努力だとか、その、才能だとか、そういうのを全部足し合わせて一つのことに注いだら、きっとすごいことができるんじゃないかって思うんだけど」 「才能」と発音するとき、彼は少しためらった。 「わかる?」 彼はなんでもある程度うまくこなせる性質の人間であ
小学校の頃の話だ。 ナイター練習が終わりかけるころ、決まって父はやってきた。 とっくに私の腕は重く、ヘルメットの下でまとめた髪が蒸れる。父の姿がフェンスの向こうに見えた気がして、背筋が伸びる。あんまり伸ばしては、フォームが崩れる。次で、打ってやろう。汗が額を伝う。ピッチャーの手を離れた球がゆっくりこっちに向かってくる。その軌跡が、暗いグラウンドを照らす光の中にぼやけて見えた。 小学校も高学年に上がると、火曜日の夜にナイター練習が入るようになっていた。近くの中学
なんてこったい。もうこんな時間だ。君はどうしているだろう。 僕は風呂も飯もままならない。部屋にテレビがないせいで気づくのが遅れた。時計なんかは置いてない。ましてやそれと教えてくれる人なんかもいない。君も遠くだ。あーあ、このままじゃ間に合わないや。 せめて何か、夕飯に美味しいものでも買って来ようとアパートを飛び出せば夜空は高く、輝く星が明るかった。空なんて久しぶりだ。もっとよく見とけばよかったと思いながら、僕は自転車をこぎ出した。 スーパーはまだ開い
日曜日の昼過ぎ、何をするでもなく寝ころんでいると、インターフォンが鳴った。玄関のドアを開けると、段ボール箱を抱えた男が立っていた。皺の寄った変なTシャツを見るかぎりから、運送屋でないことは明らかだ。 「来たぜ」 「なんで」 「LINEしたろ」 スマホを確認したところ、「今から家行く」のメッセージがこの男、品川から発信されたのは1分前のことである。 「お前のことミュートしてたわ。そもそも1分前に今から行くってどうなの」 「まあまあ。どうせ暇だろ。面白くなるから」 期
浮くみたいにして空へ昇っていった。 遠くで羽ばたく鳥の羽ばたきが気だるげなのは暑さのためだろうか。かろやかに上がったものは落ちる時もことも無げで、それでいて、もう二度とは上がらない。 佐々君は緑のリュックを取りげて、リュックからペンケースを取り出して、ペンケースからナイフを取り出して、鈍く光る刃を露わにした。そしてガリガリ君の棒に刃を当てると割くように細い木片を切りだし、二本の指につまんで刃を滑らせる。 あるいはそれを突き立ててくれればよかったかもしれない。
エヌ氏は何もない部屋に一人座っていた。頭には奇抜な形の帽子と眼鏡が。どちらも妙にごてごてとしている。 ある種のファッション。そう呼んでも差し支えないだろう。それも随分前からだ。今や文字通り老若男女が四六時中その格好だった。 簡素な部屋でエヌ氏はおもむろに声をあげた。 「やあ君か」 高層マンションのオートロック扉の前にはぴったりとした服に身を包んだ女性が立っていた。 「今日は話があってきたのよ」 「なんだ話なんて。君らしくないな」 身構えた様子の女
最近よく自転車がパンクするのは、トンガリネズミのせいなのだそう。 「最近よく自転車がパンクするんです」 「そりゃあれだな、トンガリネズミだ」 糸山先生は銀縁の眼鏡の位置を右手で正し、左手に持っていたマグカップを置いた。朝日に混じるコーヒーのにおい。 「トンガリネズミ?」 「そう。トンガリネズミ。最近じゃ珍しいかな。タイヤチューブの中に寄生し、酸素が足りなくなるとチューブを食い破る。聞いたことないか」 「ないですね」 「数十年前までよくいたんだけど。まあ気長
一人二人と席を立ち、扉が開閉されるたびに雨音が耳に迫る。背の高い椅子から人のまばらな食堂を一望した。老教授が眠っている。 食べ終えたトレーを前に私はお茶を飲んでいた。Kは三限があるからと出ていった。また雨音がした。雨中、小走りのKを遠くに見、やがてその姿も雨にかき消されてしまう。 コップの底には緑の残滓。ディスペンサーの玄米茶は粉っぽい味わいだ。安っぽくって癖になる。ぬるりと飲み干すと澱が残っていた。手の中に納まってしまうほどの小さな茶碗では、す