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甲斐荘楠音の全貌 東京ステーションギャラリー

展覧会を2回日をまたいで見に行くことはほとんどないけど、これは行きました。図録も久々に買った。今年一番楽しみにしていた展覧会。甲斐荘楠音の大規模展覧会。
お目当ては、やはりこれだった。

横櫛

この絵で甲斐荘楠音を知った。そういう人は私だけじゃないと思う。そう。岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」の表紙で知ったのだ。
高校生1年くらいの時に一時期、岩井志麻子にドはまりした私だが、やはりその小説から入った。このホラー小説は有名だったから。自分の中で怖い女といえば、この絵だった。仲の良かった高校の図書館の司書さんに岩井志麻子好きなんだって言ってドン引きされながら図書館の古くなった破棄本の雑誌銀花を貰った。仮面特集だった。
とにかく、怖い女を、夏の真っ最中に見に行ったのだ。
前に立つと大きかった。等身大あるのか、それ以上か。ずっとじっと対面する。最初はやはりグロテスクな怖さがある気がする。けれど、暫く見つめていると、どんどん怖くなくなっていく。手と足が大きいことに気が付く。とっても大きい。後で甲斐荘の女形写真を見て分かるのだが、彼も体は華奢なのに、手と足がとても大きい。とにかく、じっと見ていて、これは果たして女なのか?いや、男なのか?女形なのか?自画像なのか?どんどん分からなくなる。怪しいけれど、怖くはなくなっていく。それどころか慈悲の視線に思えてくる。ほかの作品でも思うが、彼の絵はかなり仏像に近い。花魁の絵なんかは、まんま吉祥天と脇侍童子だし。とにかく、怖い女を見に来たのに、いつのまにか、彼女に自分を愛おしく思われている気がしてくる。椅子がその前にあったから、ずっと座って眺めていた。
後でふと、山田五郎のYouTubeでやっていたクノップフを思い出す。女でも男でもないということ。女形。もしくは男形。日本は昔から男は女の面をつけて女に扮し、女は水干で男装する。それは、仏像なのかな。神秘的なものを描き出すのに必要な条件なのかもしれない。
けれど、この展覧会で一番衝撃を受けたのは、畜生塚という未完の屏風絵だった。

畜生塚 ポストカードより

息を呑む。強烈すぎた。
未完というけれど、これは、これで完成してしまったのではないかと思った。描いている途中で、勝手に完成してしまい、筆を入れる場所が無くなってしまったのではないだろうか。死後になって、蔵から出てきたらしい。豊臣秀吉が豊臣秀次の妻や妾子を処刑した事件を描いている。けれど、その個別の事件を超えたものがそこにあった。ピエタが中央に配されているがその周りの女たちは恍惚と慟哭が混ざり合っている。
後で叔母に図録を見せたら、「丸木夫妻の原爆の図に似ているね」と言われたが、確かに苛烈な悲劇の表現は似ている。しかし、原爆の図が本当に凄惨さを見せているのだが、畜生塚は、恍惚や悟りや、恨みの甘美さが流れている。日本の美術史でも最高のものだと思う。むしろ、日本洋画の系譜かもしれない。青木繁の「海の幸」、黒田清輝の「智・感・情」の到達点のような。
2回見に行ったのは、この「畜生塚」を再び見たかったからだった。

二回目の訪問で、入り口で出迎えるこの絵があった。毛抜。

毛抜

女形をやる美少年に、顎髭が生えてきたのだろうか。この表情。抗えないものへの諦めと嫌悪感。変わることへの辛さ。そんなことを思う。美人画ばかり並ぶ中に、この絵は展覧会の中では異色だった。自画像なのかと妄想した。

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