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「感激を燃料に」伊与原新さんのエッセー
仕事で出かけた先でたまたまめくった新聞に、「藍を継ぐ海」で直木賞を受賞された伊与原新さんの受賞記念エッセーが掲載されていました。あまりにも素敵なエッセーだったのでご紹介したいのですが、どの新聞だったかという肝心のメモを忘れ、帰宅してから主だった新聞各社ニュースサイトを検索しても引っかからず…どちらの新聞かわからず…申し訳ありません。痛恨。
かなりざっくり言うと、伊与原さんはありとあらゆることに感激し、それを燃料にしているというお話でした。
褒められたり、認められたり、励まされたりしたことを純粋な気持ちで受け取り、いちいち心を震わせ、感激し、それを糧にしていく。
私も「いえいえ、まだまだ、とてもとても、私なんて」とぼそぼそと、ひねくれて、斜めに受け取っている場合ではない!と、思わず喫茶店のテーブルをバンっと叩いて立ち上がりそうになりました。
「うれしいです!ありがとうございます!」
そう自然と言える人はやっぱり素敵だろうなと思うのです。
対人間ではなくても、このお菓子おいしい、とか、楽しい、とか、ここに来られてよかった、いい曲だわ、とか日々のいちいちに感激する生活はなんだか楽しそう。落差に疲れるかな?私の場合、喜びと罪悪感はセットものだったので…
私の人生、この先もう何にも幸せなことや「良いこと」なんて起きない、希望もない、あとは死ぬのを待つだけ、思いがけず早くその日が来たならばそれはそれで、と何年もそういう思いに沈んでいました。
食に関わるあらゆる方に申し訳ないのですが、何を食べても全部同じ味だな…と食事のたびにうんざりしていました。空腹を覚えることが腹立たしい。さらに言うと「おいしい」ことは無駄だとさえ思っていました。飲み込んだら終わりなのに、と。悲しいなぁ。
その頃よく思っていた「良いこと」ってなんのことを指していたのかな。自分でもよくわかりません。日々のささやかな喜びはあっただろうに何も覚えていません。私にまつわるあらゆることが嫌すぎて逃げ出せるなら逃げて楽になりたかった。あったはずの小さな喜びが今でもドス黒い雲に覆われて見えなくなっているイメージです。
そんな私ですが、今、伊与原さんのエッセーを読んで、いいなあ!うらやましい生き方だ!と素直にそう思えるようになったということは、心が回復し元気を取り戻しつつあることの表れなのかもしれません。以前の私であれば、そもそもこの記事に出会えなかったかも。
そういえば、あの頃は胃が痛くて一口も飲めなかったコーヒーが、最近はとてもおいしいと感じます。