ショートショート「山里の資格士」
朝靄に包まれる山道を、一人の旅人が歩んでいた。名を高丘(たかおか)という。腰には古びた巻物を提げているが、それは“資格士”の証。世に数多ある資格と呼ばれる力を、それぞれの専門分野に応じて使いこなす者を人々はそう呼ぶ。
高丘の資格は「建築士」。建物や橋など、人の手で造られた構造物に触れると、その場所が見てきた過去の出来事が淡く幻となって浮かび上がるという。派手な力はないものの、旅先で出合う古い建築が抱える“記憶”を読み解き、住む人々の問題を静かに解決しているらしい。
やがて高丘が辿り着いたのは、深い山々に囲まれた小さな集落だった。石畳の坂道に木造の家々が連なり、澄んだ川の音が心地よく響く。けれど集落の入口に腰を下ろす老人は、どこか沈んだ表情をしている。
「お客さん、ここに長居するつもりかえ?」
問いかける老人に、高丘は素直に「しばらく休みたいと思いまして」と答えた。すると老人は、村外れの古い家にまつわる噂を口にする。「長い間、誰も住んでいないはずなのに、夜になると灯りが点いたり人の声がしたり……。気味が悪いから、いずれ壊すつもりだ」と。
高丘は少し首をかしげる。無人の家にそんな気配があるのならば、きっとそこに宿る“記憶”が人を呼んでいるのかもしれない。建築士として見過ごすわけにはいかない。彼は礼を言い、老人の指し示す道を進んだ。
やがて竹林の奥に、噂の古い屋敷が現れた。門は傾き、屋根瓦もはがれかけている。だが、薄暮の中で玄関先がうっすらと明るいように感じられた。高丘は門柱に手を当て、そっと集中する。すると、過去の気配が微かに揺らめいた。
「……ただいま……」
誰かの声が確かに聞こえた気がする。だが返事はなく、門の奥へ足音だけが消えていく。まるで、住人が帰宅した瞬間が繰り返されているかのようだ。高丘は巻物を広げ、建物の“記憶”を呼び出す力を引き出しながら玄関を開ける。
内側は埃まみれで荒れ果てていた。床板は軋み、障子は破れ、生活の痕跡など残っていないはずなのに、奥の居間に立つと温かな笑い声の残響が耳をかすめる。続いて、誰かが慌ただしく荷物をまとめる幻影が一瞬見えた。高丘は柱に手をつき、集中を深める。
──大昔、この家には家族が暮らしていた。ある事情から急いで村を離れねばならず、老いた母だけが残り、最後まで誰かの帰りを待っていた。それが叶わずに母は息絶え、家だけが「帰宅の瞬間」を抱え続けているらしい。
そんな幻影を見終えたとき、彼の背後に二人の青年が現れた。「何をしてるんだ、こんな不気味な廃屋で」と不審そうに問い詰める。彼らは家の取り壊しを急ぐ立場らしく、「今夜だって灯りが勝手につくんだ」と不安を隠せない様子だ。
高丘は穏やかに言う。「おそらく、この家が帰る人を待ち続けているのでしょう。真相を確かめるまで、少し時間をもらえませんか」
日が暮れ、深い闇に包まれた屋敷の中で、高丘はひとり居間に腰を下ろしていた。月明かりは雲に隠れ、風が吹き抜ける。すると廊下の奥がぼんやりと明るくなった。人影はないのに、まるで誰かが提灯を提げて歩くような揺れ方をしている。
「ここにいた家族は、今も戻ってくると信じてるんだね……」
高丘は巻物を広げ、建築士の力を発動させる。すると家が見てきた記憶が一気に溢れ出し、笑い合う家族と、別れを悲しむ母の姿がかすかな幻影として浮かぶ。母の声が「必ず戻ってきておくれ」と繰り返し、灯りだけがずっと家を照らし続けていたのだ。
夜が明ける頃、青年たちが屋敷を見に来る。高丘は柱の強度や壁の修復箇所を指し示し、「この家にはまだ、人を迎え入れる力が残っています」と静かに告げる。単なる怪現象ではなく、“帰りを待つ心”が生んだ灯火なのだと説明する。青年たちも意外と納得し、家を壊す前に修繕を検討することになった。
「きっと、この家は喜ぶでしょう。いつか新たな住人が来てくれたら、と」
そう言い残し、高丘は翌朝には集落を後にする。名残惜しそうに揺れる門柱に手を当てると、また淡い声が聞こえた気がした。「ただいま……」「おかえり……」。それは遠い昔に交わされた会話なのか、それともこれから訪れる住人への挨拶なのか──。
高丘は微かに微笑む。資格士としての旅路はこの先も続いていく。どこか別の山里には、また違った“家”の記憶が息づいているだろう。人々が残した痕跡の奥にある想いを救い上げるために、彼の足音は今日も穏やかな山道を遠ざかっていくのだった。