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お粥の味

お米を水に浸し、熱を加えただけの食べ物が、どうしてこんなにもうまいのだろう。

ご飯の炊き方を知らず、わたしはお米の品種にも疎い。
コシヒカリよりササニシキが好きだとか、「まっしぐら」より「青天の霹靂」だとか、御託を並べてみても、所詮、付け焼刃の言葉遊びに過ぎない。

家人が炊く、なんでもないご飯を、毎日食べて、食べ飽きない。
しかし、或るとき、虫歯が痛んだ折にだったか、お粥にしてもらったら、湯気の中に、いざなうように米の香りが、ふわりと香った。

そんなことで騙されるものではないと、身構えて匙を運ぶうちに、限りなく無味に近い味、無味の中に在ってこそはじめて立ち現れる、味の精髄が口中に拡がるの感じ、目を瞠る思いがした。
爾来、虫歯の治療を終えたのちにも、食膳に、時折お粥が上るようになった。

もっとも、家族皆がしゃもじでよそう、艶やかな、ほかほかの、普通の炊き加減のご飯のほかに、わざわざ別誂えを炊くわけではない。

炊きたてのご飯のうち、お粥にする分だけを取り分けて、適当にミルクパンで炊き直すのである。
五分炊きとか三分炊きなどというが、一切注文はつけず、都度の家人の都合と手さばき、つまりは偶然に出来を委ねる。

おかずや御御御付(おみおつけ)は、もともと薄味を旨としてきたが、お粥の後に、或いは前に済ませてしまう。
味の付いた物を、お粥と同時に口に含むことはしない。
こうして食事の中に、或いは食事の外に、お粥のサンクチュアリ、豊饒を加える。

普通に炊いたご飯の弱点は、おかずなしでは、物足りなく感じることだ。
ご飯は、試食などの場合を除けば、食事という枠組みに組み込まれて、常におかずと共にあり、味を薄める役割を、あらかじめ期待、または要請されている。
「無味に近い味」などを、自由に、アリストクラティックに主張することは認められていない。

吉村公三郎の「京の路地裏」に、商家の奉公人が、箸の先を皿のおしたじ(醤油)にちょっと付けて、それを舐めながら食事する場面が出てくる。
いっそ無塩(ぶえん)で押し通せば、おかずも醤油もなしで凌げただろうに、なまじ味などを欲しがるから、かえって不足を感じ、不満を覚えるのだろうと思った。
もっとも、働く若い衆にそんな食事では気の毒だ。
この話は、京都人の特徴として語られる「シブチン」の章に出てくる。

味の濃いおかずについて、ご飯が進む、などという。
もう、そういう野蛮は、避けて暮らしたい。

「こだわりの」「究極の」お粥などには、およそ無縁である。
あれやこれやと、やかましいことを言い立てれば、お粥の純潔をけがす。

時折思い出しては、適当な炊き直しのお粥をよそい、たなごころに包んだ熱い椀に俯いて、湯気を鼻腔の奥まで吸いこみ、いく匙かの口福を味わう。
旨いと思えば、お代わりを重ねる。

お粥は、雪おんなの肌の色をしている。
きっと彼女は、自分を育んでくれた田に降り積む雪を思い出し、懐かしんでいるのだろう。

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