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#177_子どもをみる解像度を上げる
学級づくりでは、いかに集団を機能させるかというシステムの部分に目が向きがちだが、基本は一対一の関係性である。
集団としての機能を高めながら個の関係を築いていくことが基本となる。
一対一の関係を築く上でわたしが大切にしていることは「今の言動からその子を取り巻く環境や過去を想像する」こと。
今の姿だけで判断せず、その言動に至るまでの過程を想像するようにしている。
現在という点ではなく、環境という関係性や過去というその子の成長過程をみるということである。
中国の古書、論語にこんな言葉がある。
「其の為す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ隠くさんや、人焉んぞ隠くさんや。」
難しいと思うので図解で解説。
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「見」はぼーっと眺めている状態、「視」は言動をみることである。
例えば、授業中におしゃべりをしている、など目に見える事象のことだ。
「観」は言動の由るところ、言動の理由をみることである。
「どうしたの?」等の言葉がけは「観る」ことで生まれる。
「察」は安んずるところ、つまりその人の考えの根拠となる生活や生き方まで見抜くということである。
その子の育った環境や生活、大切にしていること、保護者との関係など、そ
の子の背景にあるものも踏まえてみるのである。
不思議なことに、その子の背景をみようとするほど、一見問題と思える行動を起こしている子を見る目が柔らかくなることに気づく。
例えば、乱暴な言葉遣いをしている子をみても、こんな見方ができるようになる。
「普段からそんな言葉を投げられて傷ついているのかもしれない。」
「そんな言葉遣いをしないと自分を見てもらえないと思っているのではないか。」
「心の弱さを隠そうとしているのかもしれない。」
見方が変わると、子どもにかける言葉も変わる。
わたしは、命に関する問題では無ければ
「何があったの?」
「事情教えてくれる?」
等と、その子を「観る」視点で言葉をかけている。
子どもの考えや事情を知ろうとすることは、子ども自身を大切にすること。
自分のことを心から考えてくれる、心配してくれる人に、人は心を開くものである。
一対一のよい関係は、このような地味な日々の積み重ねによって熟成していくのだ。