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橋本治「窯変源氏物語」と「おおくぼ源氏」④ 花宴

「窯変源氏物語」の中に挿入される、おおくぼひさこの写真を語ります


 私は「源氏物語」の中で、昔から疑いを持っている事がふたつある。
ひとつは「紅葉賀」の巻に出てくる「末摘花」の垂れ下がるほど長いという例の鼻。
もうひとつは、帝付きの女房「源典侍(げんないしのすけ)」の年齢だ。

 当時の宮廷が現代の巨大な企業のオフィスだとすると、そこに伺候する女房は今で言うキャリアウーマンという事になるのではないだろうか。
彼女たちは宮家の末裔だったり、受領の娘だったりするが、いわゆる庶民ではなくれっきとした貴族の一員なのだ。
紫式部だって、もとは「藤式部」と呼ばれており、「藤」の字が示すように藤原氏の傍流の出身だ。
清少納言にしても「清」がつくので清原氏の出身。
「源氏物語」に本名で登場するのは光源氏の従者の惟光と良清くらいで、あとは階級や出自に因んだニックネームばかり。
「光源氏」ですら本名ではない。
これが現代の私たちにとって「源氏物語」をよりややこしくさせる。
 
「源典侍」も「源」の字が示すとおり、源氏(みなもとし)の傍流という事になる。
ああ、めんどくさい。

 「源典侍」は宮廷というオフィスにいる美魔女のお局様といったところだろうか。
帝のヘアセットを担当する重い立場にいる人だが、その素行は非常に軽い。

 物語の中で「源典侍」は、帝に直接仕えるほどのキャリアと優秀さを備えているのに、若い源氏を追いかけまわす困った老女として描かれる。
そして私が疑っているのが、この人の年齢だ。

平安時代の平均寿命はだいたい30〜40才くらい。
50才を過ぎれば「長生きされて、なんとめでたい。」と祝われた時代に、この人は60才近い。
その老女が、自分より40才も若い光源氏と関係をもつ。
この時代の60才って今で言ったらいったい幾つなんだろう。
そんな事を考えるとちょっと怖くなるくらい、このエピソードはグロテスクだ。
父である桐壺帝からも「お前変わってるなあ。」って笑われてるし。
源氏に張り合ってわざわざ「源典侍」を口説きに行く「頭中将」も、これまたどうかと思う。
なんなんだ、このドタバタは。
世界最古の長編小説だぞ。
「源氏物語」だぞ。

 「源典侍」60才説は、私にはどうしても紫式部が盛ってるとしか思えない。
キャリアウーマンがひしめく宮廷で、60才とまではいかなくても、古株で幅をきかせてた女房はいたと思うのだ。
文才を買われて出仕した紫式部に先輩風を吹かせる女房だっていたかも知れない。
派手好きで男好きの女房もいたことだろう。
頭のいい紫式部は、そんな女たちにイラついたりムカついたりしてたんじゃないだろうか。
物語の中に「源典侍」のような女を登場させて、
「お気付きかどうか知りませんけど、これ、あなたの事ですからね。」
とか、暗黙の当て擦りをしてたのかと想像すると怖くて震え上がる。
なにしろ当時もう宮廷から退いていた清少納言にさえ噛みつく人だ。
「源典侍」に必要以上に歳をとらせるくらいのイケズはやりかねない。
あ、すいません。
これ全部私の妄想です。怒らんといてください。

「花宴(はなのえん)」
 この章に挿入される、おおくぼひさこの写真は「夜桜」だ。
モノクロの満開の桜には独特の凄みがある。
ロマンティックだが決して幸福な写真ではない。
その不穏な雰囲気は、これから「政治の季節」に突入する光源氏の運命を予感させる。

 左大臣と右大臣。
段飾りの雛人形には、この二人も加わる。
三人官女の下、両脇に衣冠束帯姿で弓矢を持って座る二人の男が左大臣と右大臣だ。
大体どの雛飾りも、左大臣は白鬚を蓄えた好々爺、右大臣は凛々しく口元を引き締めた壮年の男の姿をしている。
そして光源氏は、この好々爺の方の左大臣家の婿だ。

「窯変源氏」で、左大臣は源氏を婿に迎えたことを何よりの光栄と捉えており、ひたすらこの婿君にかしずく。
しかし、源氏の父である桐壺帝が譲位して今の春宮の御代がくれば、このパワーバランスは一気に崩れる。

「窯変源氏」の中で左大臣家の婿である光源氏は、もうひとりの大臣である右大臣の事を嫌っている。
右大臣家の事も、狡猾でどこかだらしなく下品な一族として見ている。
しかし次の帝である春宮は、この右大臣家から入内した「弘徽殿の女御」腹の宮なのだ。

桐壺帝の譲位と共に、御世が右大臣家一色となるその直前の危うい状勢を描いた巻が、この「花宴」だ。

 でも左大臣には、その危機感がまったくない。
この御代がいつまでも続くと信じている。
「源氏」という、政治に携わる立場に降籍されてしまった光源氏はその事に気付かない左大臣に愚かさを感じているが、今の自分の立場でどうする事も出来ない現実を受け入れてもいる。
だからこの「花宴」での源氏は、どこか投げやりだ。
 宮中で豪奢な花の宴が催されたその夜、右大臣家の殿舎である弘徽殿に忍び込み、右大臣の「六の姫」を誘惑して関係を持つという暴挙に及んだのも、源氏のそうした投げやりな心がさせた事なのかも知れない。

 桜が終わり、藤の花の満開となった頃、源氏は右大臣家の「藤の宴」に招待される。
 数多い娘のひとりを自分に押しつけようとしている右大臣の魂胆を見抜く源氏は、
「誰が行くか、そんなもん。」
とも思うが、あの花の宴の夜に契った姫の事も気になる。
父帝に勧められもして、「仕方ない」という体で右大臣邸へ出かけることにする。
 
 「なに着て行こうかな。」
「与謝野源氏」の中ではサラッと済まされる、源氏のこの夜のコーディネイトを「窯変源氏」では実に念入りに説明する。

タキシードで出席するべきパーティーだけど「貴方に来て貰わなきゃ始まんないんですよぉ。」とまで言われた夜会にわざわざ礼をとる必要もない。
でもさすがに平服で行く訳にもいかず、源氏はタキシードをどう「着崩す」かの思案を始める。
 私にはこのシーンが、この章の圧巻だと思える。
とにかくオシャレさんなのだ。
衣装の色、組み合わせのセンス、優美な物腰、堂々たる態度。
そうして右大臣邸に現れた源氏はまさに大スターだ。

 この章は他の章と違い、「宮中」が舞台になっている。
それだけにロケーションはとんでもなく豪華で美しい。
でもその中で源氏はロクな目に合わない。
「源典侍」に追い回されるわ、「頭中将」につきまとわれるわ。
しかも宮中には「藤壺の宮」がいる。
宮中にいる「藤壺の宮」は帝の妃で、源氏にとってはこの世でもっとも遠いところにいる人なのだ。

 蒸せ返るような花々の中にあって、でもこの章での光源氏はあまり幸せじゃない。
「花宴」という章は源氏のこの先の苦難を前にした、不穏な輝きに満ちている。

 若く美しく傲慢な光源氏は、ひとつの時代を終えようとしている。
つまり大人になっていく、という事だ。


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