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絶対、負けへんし。

ちょっと長いです、すいません。

 先月、母から「お父さん、コロナみたいやねん。私も今熱が38度くらいある。」
と電話があり、慌てて特急電車に飛び乗ったもののその移動中、今まさに自分がコロナの巣窟に乗り込もうとしている事に恐れをなした。

 去年コロナに罹患し、熱による身体の激痛と後遺症の倦怠感に長く苦しんだ事を思い出したのだ。
あんなところへ行ったら確実にコロナに感染する。
どうする?
引き返すか?

 実家は、母が父を介護する典型的な老々介護家庭で頼る人なんていない。
それに気丈な母が電話をして来るなんて、よくよくの事だ。
「うわーっ、どうしよう〜!」
電車に乗ってしまってから「どうしよう」もないもんだが、もうどうしようもない。
「毒を喰らわば皿まで」とはこういう事を言うのか?違うか。いやいやいや、そんな事より、どうすんの?私。

大阪に近づくごとに不安はどんどん大きくなっていったが、着いた途端に憑き物が落ちたように腹を括った。
「大丈夫。絶対負けへんし。」

 父は今年90歳。
尿道と胃にカテーテルの管を繋がれた、どっからどう見ても立派な重病人だ。
しかし本人にいっさいその自覚はない。
 数年前に脳梗塞で倒れて以来、半身麻痺で会話もままならず筆談でコミュニケーションをとるという状態だが、どんなに時間がかかっても自分がやりたいと思う事は絶対に諦めない。
おしっこバルーンを抱えてるくせに、必ず洗面は自分ひとりでしようとする。

母も80歳を超えたがこれまた異様に元気で、そんな父を特に苦にする様子もなく手厚く介護している。
私は介護士の仕事をしていたので、介護の現場がどういうものかよく知っているが、実家には要介護者特有のおしっこの臭いがまずない。
母は毎日欠かさずシャワー入浴で父を隅々まで磨き上げている。
重病人とはいえ父の身体はどこをとっても、ツヤッツヤのピッカピカだ。
あなたのマネなんて誰も出来ないと、人に言われるらしいが、
「なんでやろ。誰でもやってるん違うん?」
どうも心の底からそう思っているようだ。

 大阪で両親の介護と看病をし、案の定自分もコロナになり、回復した母に看病され、ほうほうの体で自宅に戻ったというのが事の顛末で、帰宅したらなぜか夫もコロナで熱を出して寝込んでいたというオチまでついた今年の夏。
もう、二度と御免だ。

 父は若い頃から病気の宝庫のような人で、十二指腸潰瘍、大腸癌、パーキンソン病、脳梗塞、いちばん最近では白血病を宣告された。
こうして改めて書き出してみると愕然とする。
よくもまあ、これだけ後から後から病気をしたものだ。

 「趣味、病気。」
ずいぶん前、父が大腸癌の摘出手術を受けた時、病院の待合室で母とふたり、クスクス笑いながらそんな陰口を叩いた。
余命宣告をされた訳ではないとはいえ、不謹慎この上ない。
しかしこれまでも父の病気の事で、私たち家族が悲壮感に包まれるというような事はついぞなかった。
父は40代の頃から毎年のように十二指腸潰瘍で入退院を繰り返していたので、病気慣れというか、病人慣れというか、変な免疫みたいなものが私たち家族にはあった。
でもそんな事より、病気に対する父の態度があまりにも「天晴れ」だったからだと、今にして思う。
 もう何回目と数える事さえなくなったけど、病気の度に、特別悲観する様子もなく、父は粛々と治療を受け、手術を受け、入院を繰り返した。
家には昔から「お父さんの入院セット」なるものが常備されていたほどだ。

 父は田舎から出て来て、ひとりで商売を立ち上げた職人で、サラリーマンとか勤め人とかいうのではなかった。
だからこそ自分の病気ともマイペースで向き合う事が出来たのだろう。
生真面目で、職人特有の頑固さ厳しさがあり、その上短気で怒りっぽく、私にとって決して「お父さん、大好き。」な父ではなかったが、それでも大事に育ててもらった。
そんな父の、病気との向き合い方を見ていると、私はいつも「闘」という小説を思い出す。

 「闘」は幸田文の小説で、結核病棟の日常が淡々と描かれている。
何か大きなドラマがある訳ではないが、病棟の中での医師、看護師、付添婦、患者、またその家族や友人それぞれの、病との向き合い方、その振る舞いが、幸田文独特の少し突き放した、時に冷たく感じる文章で綴られている。

 昭和48年出版の本で、時代設定もその当時になっている。
当時、結核はもうすでにバタバタと人が死ぬような不治の病ではなくなっているが、まだまだ難しい病気で、何年も入院療養をしている患者が大勢登場する。

 完治して晴れて退院し、社会へ戻っていく者もいれば、10年以上入院していて病棟の主みたいになっている者もいる。
 自分の仕事に誇りを持ちながらも、達観して感謝のうちに死んでいく農夫や左官職人。
 完治と診断されて退院出来ると思いきや、病院の中での生活しか知らない自分が、これから先どうやって生きて行けばいいのか分からず、悲観し、結局自ら命を絶ってしまう少女。
 患者との微妙な男女関係を渡り歩く付添婦。
 夫の不義を責め立てヒステリーを起こし、哀しくも壮絶な死に方をする主婦。
 現代のSNSよろしく、院内の情報を垂れ流す患者同志の噂ばなし。

 病院の敷地内、四季折々の美しい自然を背景に展開される様々な物語りは、何度でも読み返せる強い力を持っている。

中でも病棟の主と呼ばれる病歴10年選手の青年、別呂省吾の闘病は凄まじい。
 闘病生活の長さが、彼を辛辣で意地の悪い性格にしてしまったが、自分の病気から逃げるという選択肢が、そこにはいっさいない。
「病と刺しちがえる」その気概で、彼は何度も危篤状態から生還する。

その執念深さ、慎重さ、狡猾さに、私は何となく父の姿を重ねてしまうのだ。

半身麻痺を抱えながらも、自分の意思を通し、自分のしたい事をする。
危なっかしい事この上ないが、見ていると、どう動けば転ばないか、どの手すりにすがれば安全に歩を進める事が出来るか。
慎重に考え、長い長い時間をかけて目標を達成させている。
うっかり手を出そうものなら、振り払われる。

 考えてみれば、病歴50年のつわものだ。
年季の入り方が違う。
「天晴れ」だとは思うが、父は自分の人生を過酷だと思った事はなかったのだろうか。
父とこんな話しをしてみたいと思うが、筆談では多分無理だろう。

 私も自分の事を振り返ってみて40代の頃の事を思い出すと、それなりに過酷だったんじゃないかとは思う。
今でこそお気楽な隠居生活をさせてもらっているが、当時は経済的な困窮、健康不安、夫との不和、親戚との軋轢、子供の不登校、仕事への不満。
誰もが経験する事ばかりだが、こういった事で毎日がヘトヘトだった。
父や母に似ずヘナチョコの私にとって、これら永遠に解決する訳がない悩みは、やっぱりしんどかった。
毎朝鏡に向かって、「負けてたまるかっ!」
と、声に出して言ったものだ。
「絶対、負けへんし!」と。
 自分は強い人間だと信じたかったのだ。
ヘナチョコのくせに。

 実家に行って父の顔を見る度に、次はもうないかも知れないといつも思う。
なにしろ90歳だし、筋金入りの病人だ。
実家を出る時はいつも「今生の別れ」という言葉が頭をよぎる。
 「お父さん、もう帰るね。また来るからね。」
帰り際に父にそう挨拶すると、いつも父はゆっくりと茶箪笥の引き出しを指差す。
父の財布が入っている引き出しだ。
私が困窮した時、父にはずいぶん助けてもらった。
父の中でまだそれは続いているのだろう。
帰る度に私に小遣いを渡そうとする。
今回もそうだった。
 「貰っときなさいよ。交通費だって馬鹿にならないんだから。」
母も母で、堅い人だから
「それはそれ、これはこれ。」
と言って、交通費として私にお金をくれる。
いらないと言っても聞かない。

 「今生の別れ」とは誰の上にもある事だ。
突然の別れにぶつかる事を思えば、何度も繰り返される「今生の別れ」は、もしかしたら幸福な事なのかも知れない。


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