[Immersive Museum]、yogiboでくつろぐ、「ちょうどいいアート」の在り方。
日本橋コレドの三井ホールで7月から開催されている「Immersive Museum」は、印象派の代表的な作品にフィーチャーし、テクノロジーと融合させながら没入感を味わえる体験型アートエキシビションである。
突然だが、アートというのは知れば知るほど面白いものだ。が、それと同時に「これは知らないとぜーんぜん面白くないな」と思うことが本当に多い。
何も知らなければ、デュシャンの「泉」はただの小便器だ。友人はカウズの作品を見て「スヌーピーのパクリだね」というし、ピカソの「泣く女」は自分にも描けそうだと言う。
何度「そうじゃなくて、」と反論したい気持ちをぐっと飲みこんだか!感じ方に正解はない。パクリだと思えばそうだし、自分にも描けそうと思うならそれも間違った感性などではないのである。
歴史的にどのような価値があるのかを説明したところで、「はあ」「難しくてよくわからんよ」と適当に話を打ち切られ、私は小難しい評論家気取りの小娘になる。多分、実質そういう面もない、とは言い切れないが。
ただ、ここで「わかっちゃいねえな」と熱弁すればするほど、アートに薄い関心を抱いていた層はどんどん離れていく。世の中にはたくさんの作品があって、もしかしたら一つの人生を突き動かすような、もしくはなんとなく「素敵なものを見たな」という小さな満足感を埋めてくれるような、そんな作品に出会えるかもしれないのに、そのチャンスを失ってしまうのはもったいない。
その点で、TeamlabやImmersive Museumのような没入感のある体験型アートはそういったライト層がアートを身近に感じるには最適なコンテンツと言える。そもそも、たいていそういった体験型アートは全館撮影OKのところが多く、SNS映えはまず間違いない。
強い光彩はなんとなく粗(?)を隠してくれるし、館内は空調が整っているので気候を気にする必要もない。ストーリーにあげてなんとなく意識高い系に見せかけることもできるし、薄暗いのをいいことにイチャつけるのでデートには最適だ。
最初は、そんな意識でアートと向き合っていいのか?となんだか高潔なアートが低俗になってしまったように感じていたが、そもそもアートは元から誰かの、ましてや私の物じゃないし、迷惑かけなきゃどんな楽しみ方があったっていい。そんな考えを決定的にしたのが、このImmersive Museumなのである。
黒いカーテンを恐る恐る開けエアコンの効いた館内に入ると、辺り一面に柔らかな色彩がぐるぐると巡っていた。入退場のタイミングは自由で、展示のスタートはあるものの、最初から見ないと何が何だか、、、ということではない。
室内には大きめの簀の子やyogiboのクッションがそこかしこに置かれ、各々がそれぞれの姿勢でくつろぎながら、時にスマホのカメラを構えて、作品を鑑賞していた。
最新のテクノロジーを駆使して、印象派の画家たちの一筆一筆が花びらのように剥がれて舞っていく映像には、実際に彼らが筆をとり、色を作って重ねてきた生きていたぬくもりのようなものを感じて感動したし、写真のようなCGの光景が波の揺らめきに合わせてだんだんと絵画になっていく映像は、モネがあの夕日を見たそのままにカンバスに色を乗せていったのだろうと思いを馳せることができた。しかも、yogiboのもちもちクッションにどっかり横たわって。
人の波に押されて遠くからぼんやりと、「あ、キレーな絵だな」と通り過ぎていくのが本来の芸術鑑賞であったとすれば、寝転びながらテクノロジーによって違う芸術作品へと書き換えられた今回の展示は、一つの作品を味わいつくすという点でとても見ごたえがあり、満足度も高い展示だった。
このように筆跡ごとに分解されうねり、千切れ舞う絵画は、もはや本物からはかけ離れた別の作品になってしまっているのかもしれない。やはり本物の良さというのは、芸術家たちが残した筆のぬくもりと、油絵具のツヤと複雑な色彩を見ることにあるのだとも思う。
しかし、1日で回りきれないような広~い美術館で、見所も良くわからないまま、「これが教科書に載ってたやつかあ」「あれなんだか意外と小さいな」「人が多くてよく見えん」「おばさんがすごい押してくる」みたいな気持ちで見る本物は、結局「芸術ってよくわからん疲れるもの」に結びつかせてしまう気がしてならないのだ。
正直、Immersive Museumにしても、モネの連作のくだりなんかは「もういいよなんなのよカラフルなこの藁小屋」みたいな気持ちになった人もいるのではないかと思う。詳しい解説も特にないので、絵具を持ち出せるようになったことによる光の捉え方の変化は歴史的な変革であった、というのはなかなか伝わりにくい。
それでも、いいのだ。アートなんか、寝っ転がりながら「うわー綺麗」「ストーリー載せよ」で、いいのである。それがいつか、本物を見てみようという気持ちに繋がるかもしれないし、ちょこっとだけ美術館のハードルを下げるかもしれない。ひとつでも多くのアートが、思い出として個人の中に残るのであれば、それはすなわちその人の文化的な豊かさにいずれ繋がっていくはずだから。
堅苦しい美術館より、案外、yogiboに寝転んで鑑賞する「ちょうどいいアート」が、遠いと思っていた世界をつないでくれるのかもしれない。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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