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新月の君

 彼女は新月の夜に泊まりに来る。
「今日は遅かったじゃない」
 アパートの階段を登ると、彼女は意地悪そうに笑った。
 真っ黒なキャミソールワンピースを着た彼女は夜に溶け込んで、首と手足だけ浮いていた。
「今日は夜勤だから遅いよって言ったのに」
 扉を開けると彼女は僕の後について来た。下げていたコンビニ袋を人差し指で引っ張った。
「今日のお夜食は何?」
「今日は唐揚げ弁当です」
 彼女は不服そうに「私のアイスが入ってない」と呟いた。
「また買いに行こうよ」
「私はもう寝たいわ」
「珍しいね。いつもは夜更しするじゃない」
 彼女が僕の家に来るときはいつも日が昇るまで起きている。そして僕が少し微睡んだ隙にいなくなっていた。
「なら今から買ってくるよ。ちょっと待ってて」
 彼女が腕を引っ掻いた。
「痛っ」
「せっかく会いに来てるのよ?ないならないなりにご奉仕してちょうだいよ」
 難しいことを言う。少し悩んで冷蔵庫を開けた。以前大家さんから分けてもらったお歳暮のフルーツ缶を出した。
「あら、いいじゃない。さては別の女にやるつもりだったわね」
「何言うかと思えば、君以外に上がり込んでくる人はいませんよ。それに缶詰で喜ぶ女の子はそんなにいないんじゃないかな」
 彼女は誇らしそうに微笑んで「私はあなたがくれるものならそれなりに喜んであげるわよ」と言った。それから缶詰の中身を移した器を奪って行った。

 彼女と僕は恋人ではない。恋人というにはお互い干渉し合わないし、ただの知り合いというには遠すぎる。この距離感がちょうどよくて、僕らはこの新月の一夜を楽しみにしていた。二人で一つの布団に入って特に何をするわけでもなく近況を報告する。
 大体僕が疲れて先に布団に入っているところを彼女がダイブして来るのだが、今日は彼女が先に布団に入っていた。
 仮にも女の子の布団に入ることは躊躇われて、もぞもぞしていると
「なに今更恥ずかしがってんのよ。来なさい」
 掛け布団の片手で押し上げて、受け入れ体制を取っていた。
「失礼して」
 彼女が先に布団に入っているのは珍しく、ふんわり石鹸の香りがした。
 彼女は枕の上にうつ伏せになって、スマートフォンを弄っていた。
 彼女のLINE画面が目に入った。どうやら相手は男の子らしい。
「彼氏ですか。そんな相手がいるのに僕と会ってていいの」
 彼女は鼻で笑った。
「彼氏は作らない主義なの。私は自由でいたいけど、私の周りにいるのは私を縛りたがる人ばかりだから」
 ごろん。寝返りをうって円形の電灯に手を伸ばした。
「でもね。なんとなく後ろめたさがあるんでしょうね」
「後ろめたさ?」
 彼女は「おやすみ」とだけ言って何も言わなかった。

 彼女が気になって眠れなかった。
 彼女と僕の関係は変わっている。僕らは互いに干渉しない。僕が彼女に干渉しないのは、今の関係を壊したくないからだ。彼女を僕のものにすることはできない。それをしてしまえば彼女を失うとわかっていたから。
 ベランダまで出て煙草をふかす。
 月も星もない空に都会のマンションの光だけが見える。いつからこんなに人口的な星になったんだろう。人の温もりなど感じない。無機質な星。
「あら、貴方煙草なんて吸うのね」
 右手から煙草を奪われた。
「起こしちゃったか」
「ずっと起きてたのよ。夜行性だから眠くても目が冴えちゃうの」
 奪われた煙草に口をつけた。
「せっかく綺麗に育てられたんだから、煙草なんて吸っちゃ駄目よ」
 肺が真っ黒になるわと彼女は悪戯に笑った。
「僕は綺麗なんかじゃないよ。」
 なんだか嫌な感じだ。僕を子どもだと思っているような感じ。彼女は僕を聖人か何かだと思っている。
「私にとって貴方は綺麗なの。」
 だって、と彼女は僕の頬に手を伸ばした。親指で頬を撫でられる。
「こんなに綺麗な目をして、真っ直ぐ目を見られる人初めてだもん。こんなに清純な人もう世の中にはいないわ」
 彼女は灰皿に煙草を押し付けた。
「私は貴方とは交われない。貴方と私が惹かれ合うのは、お互いないものを持っているからよ」
「もし、君と僕が一緒になったら」
 もしもに期待した。もし僕と同じ気持ちなら一緒になったら、彼女と僕はどうなるのか。
「もしもなんてないわ。貴方と私が一緒になったら、私はもう二度と貴方の元に訪れない。ただそれだけ」
 ベランダの柵に体を預ける彼女は夜空を見上げた。
「私が貴方に出会ったのはきっと良くないことだったんでしょうね」
「どうして」
 どうしてそんなことをいうのか。僕は彼女との時間が好きなのに。
「貴方が私みたいに堕ちて行っちゃいそうだから」
 夜空に背を向けた。
「私、新月が好きなの」
「満月や三日月が好きとかだったらわかるけど珍しいね」
「月って何時でも私達を監視しているでしょ。私がした悪いことも人には見せられないことも全部見られている。そんな気がして嫌いなの」
 だから、月が見えない新月が好き。彼女は力が抜けたように笑った。
「そんな大事な一夜を僕にくれるんだ」
「そんな大事な一夜だから貴方に貰ってもらうの。私みたいな穢れた女が貴方みたいな綺麗な男に会っていることに月が気づかないから」
 何だそれ。っと笑ってしまった。彼女がこんなにポエマーな一面があったとは知らなかった。
「まだ夜はこれからね」
 彼女が伸びをした。
「もう寝ようよ」
 彼女が僕の腕を引っ張った。
「何言ってんの。お話しましょ」
 布団に潜り冷えた爪先を絡めながら彼女は話した。この間出会った男の話。仕事の話。
 彼女の声に耳を傾け、微睡んだ。
 必死に目を開こうと、しょぼしょぼした目を見開いた。
「何変顔しているのよ」
「いや、次に目を閉じたら君に会えるのはまた一月先だろうから」
 必死なんだ。毎回が大切で大好きな夜だから。
「あれだけ寝たがってたのに」
「いつも君と僕は布団の中で話をしてたから、面と向かって話すのは緊張しちゃって」
「それ、捉え方によってはひどい言い分だからね」
 彼女は笑いながら、僕の胸に顔を埋めた。
「でも、まぁいいわ。」
 彼女が僕の顔を見た。
「じゃあ勝負ね。貴方が寝ている間に姿を消せるか、貴方がずっと私を見ていられるか。」
 彼女がまた悪戯っぽく笑った。彼女がこうやって笑うとなんだか勝てない気がしてきた。
「貴方が私を捕まえてくれるの楽しみにしてるから」
 少し上がった体温を夜風が落ち着つかせた。僕は意識を手放した。
 
 ピピピピっと機械音が鳴った。
 はっと目が覚め、ふと横に目をやると彼女の姿はなかった。
 微かに残った体温を感じる。
 アパートを出て、周りを見渡してみる。もう彼女はいなかった。
 彼女の居なくなった朝。毎月いつだって彼女がくれば翌朝にはいなくなっているのに今日は耐えられなかった。
 彼女の体温が残った身体が悔しくて、シャワーで洗い流したい。
 冷たいシャワーを頭から浴びる。
「痛。」
 腕の内側に赤が滲んでいる。彼女が僕に残した痕は熱だけじゃなかった。
 意地悪な彼女を次の新月でも受け入れてしまう。そして居なくなる彼女も許してしまう。僕の感情も知らないふりをして。
 浴室の窓から蝉の声が僕の声を掻き消した。
 ただ蒸し暑さだけが残っていた。


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