お部屋へのアメニティのご用意は控えさせていただきます

 ブルーチーズを買い忘れた。

 近頃、朝日が眩しくて目が開けられないということはめっきり減った。目が慣れてきたのだろう。朝になったら否応なしに体を起こして、日中には家の外で活動し、夜になったら家へ帰るという生活をしているのだから当然である。朝日が眩しいと思ったら、シャワーを浴びて一眠りして、日が暮れてから図書館へ行くか、レストランへ行くか、たまには5限終わりの同期たちと遊びに行くような、責任と役割のない生活は幕を下ろしてしまった。
起床してから就寝するまでの間、黙って過ごすというわけにもいかなくなった。日中、いろいろな立場の人々が私に言葉を投げかけてくる。私はその都度、適切な応答のプロットを書き上げ、時には愛想笑いも添えながら言葉にする。一生懸命やってはいるものの、及第点をとれている自信はない。

 ビストロの領収書の上に、たばこと塩の博物館の入館券が無造作に積まれている。

 朝起きて、家から出たくないと思うこともなくなった。というより、そんなことをいちいち考えていたら生活が成り立たないのである。話が始まらないのである。ほんの数年前まで、クラスメイトの視線が気になるからとか、授業中先生に当てられて答えられなかったら恥ずかしいからとか、そういう理由で登校を拒否したりしたものだが、多少は我慢強い大人になれたということだろうか。いや、意識的・無意識的に感覚を鈍麻させているに過ぎないのではないか。毎朝、うっすらと体を覆う憂鬱さに気づかない振りをして。

 モラトリアム生活を終えてなにより驚くのは、すべての出来事が一人称視点で進むということだ。博物館の展示を回遊するように、国会図書館デジタルコレクションを閲覧するように、民博のビデオテークを視聴するように、三人称視点でゆったり構えていることができない。目の前で進行するイベントは、投げかけられた言葉は、すべて私に直接関わりのあることであって、それを腕組みして傍観しながら、ははあ、そういうこともあるものですかねえ、世の中は複雑ですねえ、などとご高説を垂れているわけにはいかないのである。そしてもうひとつ驚いたことがある。人は大体朝の10時くらいまで、体を起こして言葉を話していても、頭の中は半分眠っているに等しいということだ。

 葦島珈琲の豆を取り寄せようかと思案している。

 忙しい日々に追われている時の方が、コンテンツを消費するスピードが早まるたちである。起伏のないモラトリアムの日々においては、もてあました時間を使って方々へ出かけたものだが、時間と場所の制約がある現在は、高校時代から溜まっていた積読を消費したり、映画を見たりするようになった。インプットが増えたせいなのか、突発的に何か書きたくなって、昼休みにいきなり随筆を書いたりもした。ただ、昼休みに15分で何かを書くというアイデア自体は、小泉悠先生から影響を受けたものである。

 食器洗いを長時間していたせいか、手のあかぎれが痛む。

 それなりに、話芸に関心がある。先だって友人たちと集まった時は、鯉のあらいをつまみながら仁鶴師匠の青菜に聞き入った。一人でいるときには、実演販売士・マーフィー岡田先生の口上を無意識に口ずさんでしまう。
さァ~やってきました実演販売。これがこれが、夢の包丁で~す、未来の包丁で~す。モリブデンバナジウムの包丁は切れますよ~ッ、ただひたすら。もう今日からネギが切れないなんて言わせない。切れ味も味のうちと申します。熟れたトマトの薄皮に――見ってッ、見て、見て、見てってこのくらい切れると気持ちがいいですよ。あっ、このトマト、まだ自分が切られたことに気が付いてない。

 ハンドソープを補充したから、明日は思い切り手が洗えるだろう。

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