下駄箱横の自販機

イテリメンというのは「ここに生きる人」という意味である。カムチャツカの先住民族の一つだが、彼らが半島の西海岸に住み着くようになったのは19世紀の後半になってからである。その原因はロシアとコサックの軍事衝突によるものであった。現在、チギルスキー地区にあるコヴランという小さな村がイテリメンたちの中心地である。モスクワからこの村に行くには、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーまで飛行機で8時間半、そこからエッソ村まで自動車で10時間、そこから別の村ウスチ・ハイリュゾヴォまで1時間半ヘリコプターに乗り、そこから水陸両用車でオホーツク海沿岸のツンドラをさらに40分移動しなければならない。  

イテリメン族―カムチャツカ半島に居住する“インディアン” - ロシア・ビヨンド (rbth.com)


「あのう、お客さん? 着いてますよ。3000円になります」

 智子は慌てて学術雑誌から顔を上げた。目的地の地名が大書された駅名標がタクシーの窓越しに見える。

「すみません、気が付かなかったもので。えーと…お釣りってもらえます? いま、5000円札しかなくって」

 ドライバーは気だるそうに2枚の千円札を渡してよこした。ドアが開く。ロータリーに横付けされたタクシーは、客が降りるのを待ったのち走り去っていった。間もなく正午を迎えようとする駅前には、それなりの喧騒が横たわっている。智子は人目も気にせず、財布の中を覗き込む。

「切符はあるよね。特急券は…あー、チケットレスか。ってか、もう急がないと」

 列車で移動するのに大事なのは、切符を確保することと、乗り遅れないようにすること。いま、はっきり言って、後者をクリアできるかどうかの瀬戸際に立たされている。智子はスーツケースを引いて走り出した。キャスターが唸る。改札口を抜けたとき、プラットホームでは既に発車ベルがけたたましく鳴り響いていた。ホームを駆け抜け、辛くも列車に飛び乗る。

『ご乗車ありがとうございます。この列車は…』

 デッキで呼吸を整えてから、通路を歩いて予約した座席へと向かう。市街地を抜けた列車が即座に山間部へ突入したために、車内は揺れがひどく、きわめて歩きづらい。座っている乗客にぶつかりそうになるたび、気まずくなって、軽く頭を下げる。予約した座席は車両後方の窓側だ。

 日に灼けた色の座席。テーブルを出して、コーヒーの入った水筒を置く。蓋を開けて、濃い目に煮出した液体を一口飲み、ため息をついた。それから、改札を通るために手に持っていた切符を、ひとまず財布に戻す。車掌に提示を求められたとき慌てないよう、いちばん手前に入れておく。
 列車は深い山と山の間の、かろうじて平坦になっている谷の部分にへばりつくようにして、たくさんの川と街を素通りしながら、急ぎ足で大地を駆け抜けていく。

「…なんとか間に合った」

 2か月ほど前のことだ。定期健康診断で見事に異常値を記録した智子は、再検査のため訪れた病院で、ドクターから湯治を勧められた。面食らったが、思わぬ形でバケーションの機会を得たと思うことで自分を納得させることにして、休職の手続きを完了させ、旅館の手配も済ませた。自分でも驚くほどの手際の良さだった。そして、いよいよ今日から温泉地へ向かうこととなったのだった。
 しかし、いまどき湯治とは。安部公房のカンガルーノートじゃあるまいし、と少し可笑しく思う。

 ふと見ると、座席のひじ掛けには、かつて灰皿だったと思われるモノの遺構が残っている。公の場で紫煙をふかすことがご法度となったこのご時世、すっかり用済みとなった彼の口は溶接され、永遠の沈黙を守り続けていた。その上を指でトントンと叩いてみる。かすかに、ベルのような音が鳴った気がした。ただ、まことに小さな音だったために、智子はそれを気に留めることなくコーヒーを飲み続けたのだった。

 暫く経ち、列車がトンネルに入ったころである。ゆっくりと通路のドアが開く音が響いた。

「お弁当に、サンドイッチ。温かいお飲み物…」

 車内販売のワゴンだ。よく通る声の、女性のパーサーがワゴンを押している。彼女は一礼すると、通路を前に向かって進み始めた。
空腹でもないし、飲み物はコーヒーがある。智子は車内販売を利用するつもりはなかった。しかし、視界の端にワゴンを押すパーサーの姿が入った瞬間から、彼女の目はワゴンに釘付けにならざるを得ないのであった。

「…なにあれ」

 長身で女性のパーサーは、オスマン帝国軍の軍服を着こなし、腰には軍刀まで挿していることが伺える。彼女が押しているワゴンも、見慣れたそれとはまったく異なる姿を呈している。まず、ワゴン自体の高さが尋常ではない。天井すれすれまで届かんばかりの、銀製であると思われるピカピカのワゴンは、大きな木製の車輪をギシギシ言わせながら通路を進んでゆく。車輪が回転するたびに、ワゴンに付属された煙突がもくもくと煙を吐き出す。

 蒸気機関で動いているのか? まさか。スチームパンクじゃあるまいし。

 少なくとも三階建てになっているワゴンの天辺には、大きなバゲットがいくつも立てられた籠と小籠包の蒸し器とが積み上げられ、いちばん下の段は大きなピザ窯になっているようだ。見ようによっては、飲茶のワゴンサービスのように見えなくもない。が、理解が追い付かず智子は静止した。なぜ列車内で、蒸気機関で動くワゴンサービスが提供されているのか。ついさっきまで静粛で秩序だっていた列車内の空気の中に、突如として異物が差し込まれたような違和感がある。

 パーサーは相変わらずよく通る声で話し続ける。

「アルコール類に、お弁当。コーヒーチケットに、ココナッツのアイスクリーム。枢機卿の愛したウィーナーシュニッツェルに、ハル・ノート。キューバリブレ、ベルエポックに、キンズマラウリ。日本道路公団に、放棄分譲地、2008年はいかがでしょうか」

 軍服姿のパーサーは、智子の前列の座席のあたりを通りかかろうとしていた。煙突の煙が目に染みる。車輪の軋む音。

「2009年に、エスカルゴ、温かいお飲み物はいかがですか…」

「…あのー、すみません」

 智子は思わず手を挙げていた。ここでパーサーを呼び止めなかったら、後で行き場のない好奇心をどう慰めたらよいのか分からなくなる。勇気を出すべきだ。直感がそう告げていた。

「はい。ご注文をお伺いいたします」

「えと、2008年? っていうのは、何の商品ですか? お土産みたいな?」

「お土産、という捉え方もある意味正しいかと存じます。ご入用でしたらぜひ」

「あー…。何かの、えっと、お菓子ですかね? 飲み物だったり…」

「2008年は、平成20年でございます。2009年も大変人気でございますよ」

 笑顔のパーサー。目を逸らす智子。しばしの沈黙。

「お客様、こちら商品のリストでございます」

 パーサーが慣れた手つきでA4サイズのメニューを手渡してよこした。車内販売の商品のリストには、見慣れたものもあれば、どんな商品なのかまったく想像のつかないものまで、いくつかの商品名が記載されている。

ビール 300円

お茶 200円

コーヒーチケット 2000円(五枚綴り)

ココナッツのアイスクリーム 700円

枢機卿の愛したウィーナーシュニッツェル 2000円

ビシソワーズ 1000円

北京ダック 6000円

ピッツァ・マリナーラ 1500円

ハル・ノート 時価

マファール(中華街で人気の揚げ菓子♪) 700円

公民権 時価

キンズマラウリ(ワインのふるさと・ジョージアの半甘口ワイン♪) 
2000円

菩提樹の香り 500円

上海蟹のピカレスク 8000円

オマール海老のマーシャルプラン 6000円

舌平目のエスノセントリズム 7000円

放棄分譲地 時価

2008年 時価

2009年の土曜深夜 時価


「えー…。これは何というか、結構ガッツリしてるんですね。普通こういうところのおつまみって、乾き物じゃないですか」

「当社自慢のワゴンサービスでは、揚げ物も提供してございます。こちらにはフライヤーも付属しておりますので」

パーサーがワゴンの棚の一つを引くと、コンビニでホットスナックを揚げるようなフライヤーが姿を現した。中ではキツネ色の竜田揚げがいい音を立てている。

「そして、こちらはオーブン、それにここにはクヴェヴリもあるんです。割れたりしないように、ガッチリと固定してあるんですよ」

「クヴェ…?」

「東欧の、コーカサス地方などでワインの醸造に用いられている甕にございます。ワゴンサービスでは、沿線で収穫された葡萄を契約農家から仕入れ、この甕の中で醸造したフレッシュなワインをお客様に提供しております」

「はぁ…。ワゴンサービスで揚げ物どころか、ワインまで作ってるんですか? そんなことあります?」

「お客様からのご要望にお応えするべく、ご用意してございます」

 いつからワゴンサービスは、ここまで豪華になったのだろう。というか、近年のワゴンサービスは縮小していく方針ではなかったか。だとすれば、この豪華さはなんだ。インディーズの車内販売? まさか。疑念が疑念を呼ぶ。聞いたことのない酒に、揺れる列車内で揚げ物だと? ピカレスク? 公民権? こんなに客を混乱させて、何が目的なのだ。智子は堪りかねて口を開いた。

「あの! 聞いてもいいですか」

「ええ、なんなりと」

「この、2008年っていうのは、結局なんですか? これもお客さんに人気だったりするんですか?」

 軍服姿のパーサーは暫し沈黙する。山間部を抜けたのか、列車の揺れは先ほどよりも穏やかになっていた。パーサーの切れ長の目が智子を捉えている。智子の視線が軍刀に向かう。次の瞬間、パーサーは髪をかき上げ、にっこりと微笑んで見せた。

「2008年は、売れ筋の商品でございます。いかなる美酒より珍味より、ずっと売れ筋でございます。2008年をお買い上げになるために、わざわざ切符を買われる方もいらっしゃるくらいです。それは、きわめて複雑な味のワインをテイスティングするように、官能的な喜びがあるそうですよ。ベトベトした、報復性の夜更かしをせずにはいられない毎日より、ずっと瑞々しくて美しいのだとか。そうそう、ご希望でしたら、お客様にぴったりの2008年のご提案も承っております」

「提案…?」

「ええ。お客様でしたら、例えば――」

 おもむろに、パーサーが智子の頭の上に顔を寄せる。彼女の胸元の勲章―それはよく見れば、大勲位菊花大綬章である―が智子の眼前に迫った。

「…図工室の木屑のニュアンスがありますね。それから…塩素のアロマと、紙の香り。濡れたアスファルトのブーケも少し。」

「ああ…。夏場、2時限目のプールの後は、現代文ですものね。それに、私の故郷は雨が多かったから、アスファルトがよく湿っていて。そうして、下駄箱の横にある自販機が、私たちの全てだったんです」

 智子は、自分の膝をじっと見つめた。

「いかがなさいますか?」

長い沈黙。

「…マファールください」

「はい?」

「あの、中華街で買える揚げ菓子ください。マファールですよね」

「…承知いたしました。700円になります」

――

 ボリボリとマファールをかみ砕く。油のパンチと、控えめな甘さ。噛めば噛むほどおいしい。外の景色は絶えず移り変わっていった。まっすぐな農道の間に、竹林に囲まれた石州瓦の赤い屋根の人家が散見される田園地帯。先ほどの山間部よりも、人の営みが近く感じられる。それにしても、あのパーサーは2008年を買ってほしかったのだろうか。

「(さっきのパーサーさんの言い回し、ソムリエみたいだったな…)」

 ふと、農道の向こうに海が見えた。

『長らくのご乗車お疲れ様でした。間もなく、◯◯温泉駅に到着いたします。どなた様もお忘れもののございませんよう…』

 スーツケースを転がす。ガタガタと大げさな音が響く。人が多いとは言えないけれど、さびれているとは言い難い、小綺麗なこの駅。温泉駅のプラットホームは吹きさらしで、海風の匂いに満たされていた。それもそのはず、目の前に海があるのだ。◯◯温泉駅は、鉄道路線の乗り換えこそないものの、連絡航路の要所として知られている。改札を出たら、目の前に港がある。

「今は15時だから…。えーと、2004行きは…あと1時間か」

 改札の前。時刻表がある。見ると、2004年行きのフェリーが1時間後に出発すると印字してある。智子が湯治の目的地に辿り着くには、その2004年航路に乗船する必要があった。この時間の便に乗れば、明後日の夕刻ごろに向こうの港に着くであろうことが予想される。宿の夕食の時間にも間に合うはずだ。

 旅程が予定通り運んでいることを確認すると、智子は近くのキオスクへ入っていった。アイスクリームを買って、マファールに添えようという魂胆だった。爽快感たっぷりに、連絡船の甲板でアイスクリームを食べてやろうというのである。彼女は欲張りだった。

「いらっしゃいませ~」

「あっ、アイスクリーム下さい」

「バニラ、抹茶、チョコレートのフレーバーがございますが」

「うーん… バニラでお願いします」

 キオスクの前を、2003年航路のフェリーから降りてきた客たちが、土産物の紙袋を持って通り過ぎていく。

 昼下がりの温泉駅。線路の目の前の海では、真っ白なクジラが水を噴き上げながら漂っていた。





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