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「怠惰に生きる」〜少しでも生きやすくするために〜
人生はまるで、ケージに入れられて回し車で走るハムスターの如く、あるいは独楽(コマ)のようなもので、その場でくるくるとまわるだけで虚しいものだ。
生きるために働く、休む、家賃、光熱費、税金などを払うために働く、休む、ご飯を食べるために働く、そんな繰り返し。
そんな中でやりたいことや趣味を見つけろとから生きていれば良いことがあるとか、人には選択の自由があるとか、あるいは今苦しいのは頑張りが足りない、自己責任であるというような言葉が浴びせられる。
なんとまぁ、人間とは無責任の塊であろうか。
人間にとって一番の幸せは、「生まれないこと」である。
生まれてしまったから、生きる意味や楽しいことをわざわざ探さなくてはならないのだ。
だとしたら、初めから生まれない方が良いのだ。
それでも生きる意味を探そうとする人がいるが、人間に生きる意味は無い。むしろ意味が無い方が良い。
それこそが人によっては、救いにもなりえるのだ。
生きる意味を持つということは、その意味に縛られてしまうことになる。
生きる意味を労働にしてしまえば、死ぬまで働かなくてはいけなくなる。
生きる意味を子どもを産んで次の世代にバトンを繋ぐためとすれば、必ず子どもを作らなければならない。
生きる意味=そんなものは無いとしてしまえば、逆に何をしたって良いとなる。ある意味では救いであり、自由となる。
人間が解き放たれて救われる生き方があるとすればそれは二つだけである。
そのひとつは「怠惰に生きる」ことだ。
社会的な常識を守ることこそ、美徳と教えられて生きてきた人が多いでしょう。
しかしその美徳で喜ぶのは、一般人を奴隷にしたい国であり、政治家であり、権力を持つもの達である。
怠惰に生きることは、無用な行為への拒否であり、自身を都合よく動かそうとするもの達への抵抗となる。
人々が怠惰に生きることができれば、犯罪も起こすことも無くなるだろう。なぜなら盗みだろうと殺しだろうと、行うにはそれだけの決意とパワーが必要になる。
ならば初めからそれを持たずにいれば、平和に暮らせる。ただしそれには皆が怠惰に生きなければ実現しないが・・・
とはいえ平均を求め、異端を排除する社会。
生きづらさを感じるならば、敢えて周りに合わせず、怠惰に生きることを選んでは如何だろうか?
《参考文献》
『生誕の厄災』、E・M・シオラン(著)、出口裕弘(訳)、1976、株式会社紀伊国屋書店