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プロレスブック考察②~猪木の8年間シングル不敗を検証する

プロレスを記録のスポーツとして見るなら、連勝記録や不敗記録というのはクローズアップされるべきと思いますが、そうではないので、あまり掘り下げられることはありません。
しかしそれを調べたら調べたで、そこから必ず、見えてくるものがあるはずです。

私の調べた限り、日本国内で最も長い期間、シングルでのフォール負けがなかったレスラーは、アントニオ猪木であります。
1975年3月13日にタイガー・ジェット・シンにフォール負けしてNWF王座を失ってから、1983年6月に、ハルク・ホーガンにIWGP決勝でKO負けするまでの8年2か月間、一切フォール負けがないのです(3本勝負の1本をフォールで取られたことはありますが、試合は引き分けなので、フォール負けとはカウントされません)。
力道山かなとも思ったのですが、1957年10月17日にルー・テーズに2-1でフォール負けしていて(ノンタイトル)、1963年5月19日にザ・デストロイヤーに2-1で負けているので(ノンタイトル)、5年5か月の期間ですから、猪木には及びませんでした。

しかもこの間、猪木は1976年3月から1977年11月まで、あのモハメッド・アリ戦の引き分けなどをはさみつつ、シングル101連勝という、不滅?の大記録を達成しているのです。
今のプロレス界からすると、到底考えられない、この猪木の「8年間不敗記録」を検証していきたいと思います。

不敗前史の猪木

新日本プロレス初期の猪木は、むしろエースとしては積極的に負けに行くタイプのレスラーでした。
1972年の旗揚げ戦のカール・ゴッチ戦自体がフォール負けですし、秋にはゴッチの世界ヘビー級王座を奪取するものの、再戦でフォール負けしています。
1973年には何と二流のマヌエル・ソトに、ジャン・ウイルキンスの介入によりフォール負け(蔵前での猪木坂口対ウイルキンス・ソト戦の前景気を煽るためでしょうか)。
1974年はアンドレ・ザ・ジャイアントに、これもセコンドのフランク・バロアの介入でフォール負け。ワールド・リーグではキラー・カール・クラップに、凶器攻撃により、2連続フォール負けしています(決勝ではリベンジ)。さらにカール・ゴッチ戦との2連戦を先勝した後、再戦で、レフリーのルー・テーズを投げ飛ばした隙に、ゴッチに丸め込まれるという、唖然とする形でフォール負けをしています。
まあフォール負けといっても、マトモな形での負けは最初のゴッチ戦だけなのですが、それはそれで、身体を張って新日本を盛り上げようとした、猪木の獅子奮迅ぶりも、伝わってきます。
そうして猪木は1975年3月13日、猪木はシンに凶器攻撃からフォール負けし、虎の子のベルトを奪われます。これ以降、3月14日からの、猪木のシングル戦の記録を見て見ましょう。

1975年 70勝2敗(2リングアウト負け)5引き分け※3月14日以降

フォール負けなしのスタート年とはいえ、この年の猪木はまだ気前がいい。
4月のワールド・リーグでは開幕戦で大木金太郎に1分16秒でリングアウト負け、クラップ戦でもまた外国人勢の介入でリングアウト負けして、リーグ戦を盛り上げています(決勝ではクラップを破り優勝)。
6月にはシンから激闘の末NWF王座を奪回し、テーズを破り、年末のロビンソン戦は1-1でフルタイムの引き分けながら、これぞプロレスリングの神髄、というものを見せつけました。シンとの流血戦、ロビンソンとの技術戦と、対極のスタイルで名勝負を繰り広げたのですから、レスラー猪木として、最高に充実していましたね。

1976年 78勝1敗(1反則負け)8引き分け

雲行きが変わったのがこの年。ルスカ戦、そしてモハメッド・アリ戦と、格闘技戦に乗り出した猪木は、プロレスの看板を背負うがゆえに、勝ち負けにナーバスになっていったようです。
2月にジョニー・パワーズとのNWF戦前哨戦での反則負けが唯一の敗戦で、
本番の王座戦ではしっかり勝利しています。
そしてこのパワーズ戦直後からシングルの連勝がスタート。アリ戦のフルラウンド引き分けをはさみ、シンとのNWF王座戦の両リン、イワン・コロフ、パット・パターソンあたりとの両リンはあるものの、悪党相手の不覚の負けは影を潜めます。
格闘技戦と称した試合ではアンドレにレフリー・ストップながら勝利し、ルスカとの再戦にも勝利します。

モハメッド・アリ戦は、試合がガチか否かの論争があり、現在では「紛れもない真剣勝負だった」という説が有力ですが、さて「引き分け」という判定については、どうなのでしょうか。テレビ放送は疑似生中継のためカットされていたが、判定を協議する時間は10分近くあったという証言があります。試合が真剣でも、結果が調整された可能性は、ゼロではない気がしますけどね。
いずれにせよ猪木は、プロレスよりも格闘技戦に意欲を向けるようになります。

1977年 46勝1敗(1反則負け)5引き分け

この年も猪木はザ・モンスターマン、チャック・ウェップナーとの格闘技戦にテンションを集中させていました。モンスターマン戦は充実した試合内容で勝利し、視聴率も29%と、通常のプロレス中継の10%台を大幅に越える数字を獲得し、熱気がありました。
それと反比例して、プロレスの試合では、波乱を起こしていません。
シン、そしてスタン・ハンセン相手にNWF王座を防衛、アンドレとは苦戦の末の引き分け防衛。後はパワーズ、パターソンら昔なじみに両リン試合を提供しつつ、再戦ではしっかり勝つ横綱相撲で、勝利を重ねます。
そんな猪木の唯一の敗戦となったのが、11月のグレート・アントニオへの反則負けでした(ここでシングル連勝がストップ)。あのアントニオに反則とはいえ負けを提供するとは・・・と驚きましたが、蔵前の再戦ではあの惨劇KOで、恐いケジメをつけたのでした。

1978年 56勝1敗(1リングアウト負け)4引き分け

この年の猪木はモンスターマンとの再戦はありましたが、WWWF王者ボブ・バックランドの来日もあって、少しプロレスに意欲が戻った感じです。
そのバックランドとの7月の試合、アトミック・ドロップで3本勝負の1本を取られていますが、試合としては1-1のフルタイム引き分けで、王座奪取ならずでした。

12月14日の挑戦では、マツダ、上田、斎藤らの乱入で試合がぶち壊され、怒った猪木が「マツダ、てめえ明日殺してやるからな!」とマイクでぶちあげました。しかし実はマツダ戦の日程は2日後の16日でした。猪木は日程を1日間違えたのか?
そうではなく、この試合のテレビ録画放映が翌15日だったため、それに合わせて「明日」と言ったのでした。
当時は騒がれることはありませんでしたが、今なら絶対に突っ込まれる出来事ですね。

猪木は春のMSGシリーズで、アンドレのボディ・プレスをかわしきれずに、場外リングアウト負けで、久々に反則以外の負けを献上しましたが、決勝戦ではリングアウト勝ちでリベンジしています。
この年は坂口征二と没収試合があり、上田馬之助、クリス・マルコフと両リンがありますが、再戦では勝利しています。年末にドイツでローラン・ボックに判定負けした試合も、話題を呼びましたね。

1979年 30勝1敗(1反則負け)5引き分け

この年は8.26のオールスターを契機に馬場戦の機運が高まったり、ウイリー・ウイリアムス戦が具体化したりと、大きな動きがありました。
格闘技戦は、大凡戦のミスター✕戦、レフトフック・デイトン、キム・クロケド戦と、やや緊張感が落ちてきた感じでした。
ジャック・ブリスコやダスティ・ローデス、プロレスの大物との試合も、
今さら感があったのか、猪木はあまり乗り切れない様子でしたね。
何故かこの年はシンとの不透明決着試合が多く、3月に反則負け、4月のNWF戦はフォール勝ちしたものの、8月のNWF戦は無効試合、10月のNWF戦も無効試合と、あまり意味のない引っ張りを重ねました(8.26オールスター戦で、猪木がシンからピンフォールを取ったので、それ以上シンの商品価値を落とさない配慮があったのでしょうか)。

バックランドを破りWWF王座を奪取した猪木は、蔵前での再戦で、乱入してきたシンに気を取られた隙に、フォール負けを許します。しかしこれに新間寿が抗議して、試合は無効試合となり、猪木の防衛が成立。だが猪木はこれを潔しとせず、王座返上という一幕がありました(猪木を負けさせずに、王座をバックランドに戻すための、手の込んだ仕掛け、という気がしましたが)
大きくなりすぎた猪木をどうしていくか、猪木自身が迷っているような感もある、1年でした。

1980年 29勝3敗(1リングアウト負け、2反則負け)5引き分け

2月のウイリー・ウイリアムスとの格闘技戦は引き分けに終わりましたが、一触即発の危険な試合だったことは確かで、猪木でなければできない試合だと思いました。
その試合に先立って行われたスタン・ハンセン戦で、猪木はラリアットを食らってリングアウト負けして、5年ぶりにNWF王座を失いました。リングアウトとはいえ場外KOの形だったので、インパクトは強く、この敗戦によって、一気にハンセンを格上げした感じです。
それはつまりハンセンが、久々に猪木のレスラーとしての意欲を湧きたてる存在だったということでもあります。ハンセンとの奪回戦に勝利した後も、
初防衛戦を反則勝ち防衛、MSGシリーズで両リン、決勝戦で反則勝ち、
秋のNWF防衛戦ではリングアウト勝ちで防衛後、再戦で逆ラリアットからの逆さ押さえ込みの勝利と、集中的に激闘を繰り広げ、久々に「プロレスで燃える猪木」を見せてくれました(ロビンソン戦以来か?)

1981年 21勝6敗(1リングアウト負け、5反則負け)4引き分け

タイガーマスクが登場して、観客動員も視聴率も急上昇。新日本プロレスのブーム到来、黄金時代と云われた年です。
猪木はこの年、IWGPの開催を標榜し、そのためにNWF王座も返上。村松友視の著作により「過激なプロレス」が世間的にも浸透していましたから、猪木もプロレスそのもので魅せていく意欲を高めていたと思います。

ハンセンには没収試合の後の再戦でフォール勝ちして、NWF王座を返上。MSGシリーズではリングアウト負けを喫しつつ、決勝戦ではリングアウト勝ち、9月の試合は両リンとなり、これが最後の試合となりました(6月には全日本移籍を決断していたハンセンにとっては、譲れない試合でしたね)。
相変わらずシンには3つの反則負けが続き、最終戦も反則勝ちのまま、シンは新日本を離脱してしまいました。
秋のラッシャー木村戦では、ロープブレイクにも関わらず腕ひしぎを続けて、反則負け。木村相手では反則負けでも不覚という感じでしたが、再戦ではしっかりTKO勝ちをしています。
私は蔵前の初戦を生観戦していますが、超満員の蔵前で、格下?相手にイラつきながらも、しっかりと試合のタクトを握って、観客を興奮させる猪木には、カリスマとしての完成形を感じましたね。
しかしそれが、彼の全盛期を飾る、最後のものとなろうとは。

1982年 22勝2敗(2リングアウト負け)2引き分け

元旦にローラン・ボックに反則勝ち。アブドーラ・ザ・ブッチャーにも反則勝ちの後、猪木は2月の木村戦で、国際軍団の介入でリングアウト負け、3月のMSGシリーズで、アンドレに1分でリングアウト負けをしました(テレビの放送終了時間に合わせたのではないかと抗議が殺到した)。
この後猪木は、膝の怪我、そして持病の糖尿病の悪化で、休場を重ねるようになりました。
復帰後の猪木は、明らかにフットワークが落ち、張り詰めた肉体のコンディションも失われていました。NWF王座を返上していたせいもありますが、シングルでのビッグマッチも避け、国際軍団との1対3マッチなどで、お茶を濁していた感じでした。

1983年 12勝2敗(1KO負け、1反則負け)1引き分け※6月2日まで

そしてついに1983年を迎えます。タイガーマスクに、長州力の維新軍のブレイクで、テレビ視聴率は毎週20%を越える状況でした。
しかしその状況と猪木自身のコンディションが合っていない。しかも後にクーデター騒ぎとなる、アントン・ハイセルの負債問題も進行していたはずです。
悲願のIWGPも、世界サーキットは中止となり、国内開催のみとなる。5月25日には、梶原一騎による猪木監禁事件が明らかになりました。猪木と新日本プロレスの光と影が混然と入り乱れ、爆発寸前の状況だったのは確かです。

そうした中、6月2日のIWGP決勝戦で、猪木はハルク・ホーガンのアックス・ボンバーを受けて、壮絶なKO負けを遂げたのです。失神、救急搬送という非常事態は、一般新聞にも大々的に報道され、視聴率は25%を越えました。
8年ぶりの猪木のフォール負け(KO負け)は、それにふさわしいインパクトを、世間に与えたのです。

猪木の失神の真偽については、色々なことが語られています。個人的には、ハンセンからのリングアウト負けの時と同じパターンだったのが気になるけれど、いずれにしても、ここで「負ける」という最大のカードを切ってきたのは、猪木のセンスなのかなあとは思います。
格闘技戦のモンスターマン戦の視聴率が29%、ウイリー戦が27%と言われるのですが、それをプロレスの試合で25%のレベルに持ってこれた。そうなるとそこは、何か特別なことを起こすステージとしては、ふさわしかったのではないでしょうか。

総括・感想

ということで、猪木の8年間フォール負けなしの記録を見てきました。
不敗は不敗でも、今の完全決着プロレスからは考えられないほどの、不透明決着試合が数多くあったことも事実です(ここを抜きにして、いたずらに昭和プロレスを美化だけはできません)。

格闘技戦に向うことで、猪木は負けられない立場になりましたが、かと云って、常勝するわけにもいきませんでした(シンは商品価値を保たなければならず、WWF王者のバックランド、ノーフォール伝説のアンドレからのフォール勝ちは、困難でした)
ということで、ロビンソン戦後の76~79年の猪木は、プロレスの試合においては不完全燃焼の印象もあり、全盛期にしては勿体ない思いもありました(ここも格闘技戦の盛り上がりとセットで考えなければならないでしょう)。
しかしスタン・ハンセンによって、プロレスへの意欲が戻ってきたのは良かったし、1980~1981年の猪木には、1974~1975年あたりと並ぶ、説得力がありましたね。

これが、猪木の8年間不敗の検証であり、猪木の全盛期の振り返りでもあります。この前後の猪木についても、いずれ検証してみたいと思います。










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