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プロレスブック考察①~ストロング小林の悲喜劇

そもそも私が記録やデータに興味を持ったのは、プロレスの勝敗の記録をつけていたことが契機でした。つけている徐々に、レスラーの格付けがあって、それによって勝敗が決まっている部分が見えてきて、記録を掘り下げるのが面白いと思えてきたのです。
そういうことで「ああ、八〇長かあ」と嫌になる人もいるかも知れませんが、自分の場合は、むしろどんどんプロレスへの興味が増していったのです。
勝敗が決まっていたとしても、その勝者の役を与えられるためには、何らかの競争、淘汰に勝ち抜く必要はあるわけです。それが何かというのを見極めたかったし、そこにプロレスならではの面白味があるのではないかという、確信もあったのです。

そういう、今風に言うところの「プロレスのブック性」には、色々と不自然な綻びが見えてくる時もあるのですが、それもまたファンとしては興味深いところ。今回は、アントニオ猪木との対戦が有名な、昭和の名レスラー、ストロング小林の国内全シングル戦績を見ながら、その辺を考察したいと思います。
というのも、このストロング小林こそ、ブックによって引き上げられ、ブックによって落とされた、文字通り「ブックに生きたレスラー」だったからです(なお戦績には引き分けはカウントしていません)

1967年(14勝0敗) デビューいきなり連勝街道

小林はボディビルダーからの転向で、特に格闘技経験もない選手でしたが、そのルックスと体格、パワーを、国際プロレスの吉原功社長に見込まれました。
覆面太郎というマスクマンとしてデビューしたのですが、いきなりの連戦連勝という厚遇。まあ井上、寺西と、同期に近い選手が相手だったこともあるんですが、日本プロレスでスター候補だったマンモス鈴木にも4連勝しているのですから、新人としては異例の扱いでした。

1968年(40勝25敗) 2年目の飛躍

TBSの放送がスタートした国際プロレス。小林は前年に日本プロレスでエース級の活躍をしたハンス・シュミットに1反則勝ち2引き分け、同じく日本プロレスのワールドリーグで無敗だったワルドー・フォン・エリックに反則勝ち。さすがに実力者のダニー・ホッジには2敗しているものの、格闘技未経験の新人としてはありえない好戦績をあげます(もらいます、か?)。
その後はヨーロッパ路線にシフトした国際で、ビル・ロビンソン、ジョージ・ゴーディエンコ、アルヴァート・ウォールらには敗れたものの、外国人からの勝利もあげて、勝ち越し。秋にはヨーロッパ遠征の抜擢を受け、大器としての期待を受けます。

1969年(23勝0敗) 早くも団体エース格へ

小林はヨーロッパで「無敗の連勝街道」を歩んだとして、6月に凱旋帰国。
日本でもブルーノ・アーリントン戦の引き分け以外は、シングル戦で無敗の連勝街道を重ねます。ルーター・レンジ、ワイルド・アンガス、オックス・ベーカーあたりも寄せ付けず、シングルのUSA王座も獲得。ヨーロッパ遠征を経て、早くも団体のエース格に格上げされました。

1970年(25勝3敗) 世界王者に挑戦

バーン・ガニアのAWA世界王座の挑戦者に抜擢された小林。初戦引き分けた後、2戦目は首固めに屈し、さすがに連勝街道はストップしました。
この後のワールドシリーズ決勝戦でもビル・ロビンソンに敗れましたが、前哨戦では1敗8引き分けという善戦?ぶりで、十分ロビンソンにも気をつかわせていたことがわかります。
小林は夏に、アメリカ遠征に出発します。

1971年(20勝0敗) IWA世界王者に

小林はアメリカで、ビル・ミラーを破って、海外流出していた団体の看板タイトル、IWA世界ヘビー級王者となり、名実ともに国際プロレスのエースとなります(ただし、この試合は実際には行われていなかったことが、後に判明します)。
デビュー4年弱で団体エースとなった小林は、ブラックジャック・ランザ、レッド・バスチェン、ジェリー・ブラウン、そしてあのダスティ・ローデスを破り、無敗で1年を駆け抜けます。

1972年(35勝0敗) 無敵の王者に

小林の黄金時代と云える1年。IWA王座戦ではキング・イヤウケア、ビル・ミラー、クラッシャー・リソワスキーという、日本プロレスのインター王座に挑戦した実績のあるレスラーを堂々粉砕。あのビル・ロビンソンにも引き分け防衛し、ノンタイトルでも4引き分け無敗と、ついに「ロビンソンに負けないレベル」に引き上げられます。
さらにワールドシリーズでは実力者のホースト・ホフマン、ジョージ・ゴーディエンコを破り、準決勝では2年前のワールドリーグの決勝進出者のドン・レオ・ジョナサンを破り、決勝ではモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)を破って優勝を飾るという無敵ぶり(やりたい放題?)1年でここまでの実績をあげたレスラーは、この時点では力道山とジャイアント馬場しかおらず、まさに不動のエースの扱いでした。

1973年(50勝6敗) 後半の失速

この年も小林はザ・プロフェッショナル、ホフマン、マッドドッグ・バション、エド・カーペンティア、イワン・コロフ、ディック・マードック、ローデス、ラッシャー木村と、強豪を破り堂々のIWA王座防衛戦を続けます。
しかし秋にバーン・ガニアのAWA世界王座に挑戦し、引き分け後の再戦で敗れると、ワールドシリーズでも2敗して決勝進出ならず、さらに秋にはワフー・マクダニエルに敗れ、奪回はするものの、一時王座を失います。
この年から、小林と確執のあるグレート草津がマッチメイクの担当になり、
扱いが落ちたと、小林は不満を募らせたようです。

1974年(8勝3敗) 猪木への挑戦

草津との確執(いじめ?)が原因となって、小林は国際プロレスを退団。アントニオ猪木に挑戦して、蔵前国技館で歴史的な名勝負を演じます。
小林のキャリアや技量を考えれば、猪木が試合作りを引っ張ったのは間違いないですが、観客の多くが小林を声援したことも事実で、小林の天性のスター性というか、愛される要素も、この試合で表現されていたように思います。
3月の試合後、小林はアメリカ遠征に向い、髭をはやしてふてぶてしさを増して、12月に猪木と再戦。敗れたものの、レスラーとしての成長を示したのですが・・・

1975年(86勝13敗) 新日本所属に。だが・・・

小林は1月から新日本プロレスに参戦、ワールドリーグの決勝進出者決定戦で猪木に敗れると、「猪木を内部から研究したい」と言って、正式に新日本プロレスの所属になります。
まあこれで、前年の猪木への挑戦は、新日本プロレス移籍のための口実、段取りだったことは明らかになったのですが・・・しかし所属になった途端、新日本は小林への扱いを「あくまでも猪木、坂口に次ぐ3番手」として、落としていきます。
まあ新日本で初対戦したレスラーに負けるなら納得ですが、問題は国際プロレス時代には勝っていたレスラーに、次々と負けていったことです。アンドレは仕方ないとして、プロフェッショナル、ハンス・シュミット、バディ・ロバーツ、イワン・コロフに負けた。ハンス・シュミットは小林が新人の時に負けなかったレスラー。それが小林がキャリアを積み、シュミットが50歳のロートルになった時に負けるというのは、どう理解していいかわかりませんでしたね。
こんなわけですから、年末のビル・ロビンソン戦では、猪木戦前哨戦のかませとして、あっさりとやられました(ただこれは、それが本来の実力差という気もしなくはないのでですが、当時はショックでした)
気がつけば13敗という、数年前には考えられない負け数がついていました。

1976年(78勝19敗) 北米タッグ王者に

この年もタイガー・ジェット・シン、ジョニー・パワーズ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ペドロ・モラレスと、主力級には手も足も出ない連戦連敗、
前年引き分けた坂口にも敗れ、もはや無敵のIWA王者の面影はなし。
それでも坂口と組んで北米タッグ王者になったので、新日本としては、それなりに扱ったところもあるでしょう。
しかしブラジル遠征では、新日本では前座だったイワン・ゴメスに完敗するという醜態を見せてしまいました(ゴメスはブラジル柔術の猛者だったので、ガチな試合なら当然の結果とも云えますが)

1977年(81勝18敗) シン上田との抗争

この年の小林は、シン上田に対するやられ役。北米タッグ戦で、腕を狙われてレフリー・ストップで負け、試合欠場に追い込まれる有様でした。
しかしながら小林のやられっぷりの良さが、シン上田の悪党ぶりを際立たせたことは事実で、その意味では新日本所属後では、最も輝いたと云えるかもしれません(そのご褒美?として、夏の北米タッグ戦では、初めてシンからフォールを奪っています)。
しかし新春シリーズでは1勝1敗分けだったスタン・ハンセンに、秋のシリーズでは4敗して、完全に「小林越え」を果たされてしまいます(ハンセン自身、この秋のシリーズで小林を上回ったことを、キャリアアップの転換点だったと回想しています)

1978年(61勝28敗) 藤波台頭の陰で

春に藤波辰爾が帰国してドラゴン・ブームを巻き起こすと、小林の地位は、何となく「猪木、坂口、藤波に次ぐ4番手」ポジションに落ちていきます。
秋のシリーズではマルコフ、クラップ、バーナードのロートル相手に6回もフォール負けして、暮れのプレ日本選手権では藤波にリングアウト負け、長州にもフォール負けしています。デビュー当時の師匠だったヒロ・マツダにも2敗していますが、マツダは小林を見てどんな心境だったでしょうか。

1979年(64勝46敗) 北米タッグ失い5番手に降格

4月にマツダ斎藤組に敗れ、北米タッグを失った小林。タイトルは坂口長州によって奪回され、直後のシリーズで小林は長州に敗れたので、事実上の5番手に降格されたことになります。
MSGシリーズでは藤波と引き分けたのですが、「決勝リーグへの進出権を藤波に譲る」と言って、ファンから「小林は甘い」と言って批判されます。と言ってもその発言はフロントの指示によるものですが、当時のファンは知る由もなく、小林は気の毒な役回りでした。
さらに夏のシリーズでは、ビール瓶を頭で割るデモンストレーションに失敗して、自分で血を流すという、しょっぱいレロイ・ブラウンに分殺される役をおしつけられ、3年前までは勝っていたマサ斎藤に6連敗。デビュー以来の年間最多敗戦を記録するなど、眼も当てられない状況になっていきます。
それでも、8.26のオールスター戦では、国際エースのラッシャー木村に不透明なリングアウト負けとなり、「小林にフォール勝ちできない木村」の評価を落とすという、変な貢献を果たしています。

1980年(75勝35敗) 少しの輝き

初来日のハルク・ホーガンのかませ犬にされる屈辱はあったものの、落ちるところまで落ちた小林が、ドン底なりに見せ場を与えられた一年。
MSGシリーズでは、落ち目同士のジョニー・パワーズ戦に勝ち、決勝リーグに初めて進出。3勝6敗1分けの成績で、藤波には負けたものの、長州とは引き分けて、この時期としては精いっぱいの奮闘。
国際のIWA世界タッグ王座も永源と組んで獲得して、年末のMSGタッグリーグには坂口と組んで出場、9チーム中の5位と、これもまた当時としてはまずまずの成績をあげます。
もちろんハンセン、アンドレ、シン、ローデス、バックランドら主力級には全敗し、チャボ・ゲレロやマイク・グラハム、スティーブ・カーンらジュニア勢への不覚?の負けもあるのですが、この時期になると、そんなことにも、もはや驚きはなく、活躍の方が記憶に残ったのでした。

1981年(15勝13敗)

扱いを悪くしていった小林ですが、実際に腰痛で体調も悪化して、欠場が目立ち始めます。秋のシリーズで、ビリー・クラッシャー、ハルク・ホーガンに連敗し、バッドニュース・アレンに反則勝ちしたところで、戦線離脱。
結局、そのまま引退となってしまいました。
翌年には木村、浜口ら国際軍団と合流するアングルがあり、それが実現していたら、ヒールとしてもう一花咲かせていた可能性はありますが、残念ながら体調復帰がかないませんでした。

これがストロング小林の国内シングル全戦績です。
国際プロレスで新人時代からエース級として期待され、ある意味実力以上の抜擢を受けた。そのスター・バリューを見込まれて、新日本から引き抜かれたものの、猪木戦でその価値を消費しつくされ、その後は実績以下の扱いに
落された。「実力以上」と「実績以下」。一人のレスラーが、ここまで露骨にブック的なランクを変えられたケースは、他にないでしょう。

猪木戦のところでも触れましたが、小林というレスラーには華があり、実力は別として、観客を共感させる力はありました(その意味では、坂口やデビュー当時の長州以上だったと思います)。ですから、誕生まもない国際プロレスが、エースとして抜擢したこともわからなくはない。
一方で新日本という団体の、藤波より長州、武藤より橋本を先行させるカラーからいうと、この扱いも仕方ない気もいたします。
もしも小林が全日本プロレスに転出していたら・・・また違っていたかも知れません。



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