シューターたちの国際プロレス~プロレス・ブック考察⑥
国際プロレスという団体はオールドファンには懐かしいプロレス団体ですけど、その初期にはルー・テーズ、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチ、という、「シューター」とも呼ばれる真の実力者が来日していましたね。
しかしそれを迎え撃つ日本勢の方は、ベテランの豊登は別格として、グレート草津、サンダー杉山、ストロング小林、ラッシャー木村といった、キャリア数年程度の若いレスラーたちでした。
この状況で、妥協なきシューターと呼ばれたテーズらと日本勢が、どんな星取りを繰り広げたのでしょうか。
そこにプロレスの、一筋縄でない部分が見え隠れしているのではないかと思い、改めてその戦績をまとめてみました。
〇ルー・テーズ 5勝4敗(2フォール負け2反則負け)
地上最強の鉄人と呼ばれたルー・テーズは、TWWA世界王者として、国際プロレス(TBSプロレス)のオープニング・ワールド・シリーズに参加しました。
1月3日の日大講堂でのグレート草津戦は、1本目のバックドロップで、草津を戦闘不能に追い込んでのストレート勝ち。TBSが看板スターに目論んでいた草津を失神KOした試合は、伝説として語り草になっています。
この試合の真相については諸説あるのですが(テーズがガチをやったという説も、草津がセコンドのグレート東郷の指示でわざと「失神したフリをした」という説もあります)、テーズの他のシングル戦績を見ると、ある程度見えてくるものがあります。
1月5日、テーズはサンダー杉山と戦い、1本はフォールで奪われ、3本目は反則で、杉山に敗れています。しかし10日のTWWA防衛戦では杉山に2-1で勝ち、15日のシングルでも2-1で勝っています。
豊登とは1月7日に戦って、なんと2フォール負け。しかし17日の防衛戦では1-1の後、パワーボムで豊登を失神させて勝っています。
本番のタイトル戦で勝てれば、前哨戦は盛り上げのために負けてもいいという、ある程度の物分かりの良さを見せているのです。
しかし8日の草津との試合では再び2-0のストレート勝ちをしています。
同じ若手でも、アマレス五輪代表の杉山には1本を取らせているのに、草津にはそれすら与えていない。
そしてテーズは、24日には実力者のダニー・ホッジに2-1で敗れて、ベルトを失っています。
この結果から推察するに、テーズはこのシリーズの間に王座を失うことには納得していたが、その代わり、相手は自分で選ぶという姿勢を貫いたのではないでしょうか。TBSの推す草津への敗戦は、実力不足として拒否する、その試合は勝たせてもらう・・・その意向は、少なくともブッカーのグレート東郷には伝えられていたのではないでしょうかね。
ガチで試合をやったとしても、結果はテーズの完勝に決まっていますから、
テーズが腹を決めた時点で、草津の運命は決まっていたのでしょう。
カール・ゴッチ 13勝1敗(1フォール負け)7引き分け
無冠の帝王と呼ばれたカール・ゴッチは1971年の第3回ワールド・シリーズに来日。ビリー・ライレー・ジムの同門、ビル・ロビンソンと、5度に渡る時間切れ引き分け試合を演じました。
内容的には、ゴッチの技巧がロビンソンを押し込む面が多かったのですが、これはロビンソンが、先輩であるゴッチを立てた側面もあるのかもしれません。
モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)には、2-1でフォール勝ちした後、本番の公式戦では、ロシモフの巨体をジャーマンに決めながら、レフリーが場外に倒れていてカウントを取れず。その直後にロシモフのボディスラムでフォール負けするという、「傷つかないフォール負け」をします。
ロシモフとは決勝リーグでも1-1の引き分けで、結局、予選の持ち点からロシモフが優勝を果たします。ゴッチでもロビンソンでもなく、ロシモフが優勝という成り行きは、当時としては両者の顔をうまく立てた結果のようにも思いましたね。
さて日本勢との試合を見ると、グレート草津にはノンタイトルで2-1の勝ち(ただし、草津に1本取らせているのは、さすがに顔を立てた感じですか)、公式戦でも勝利しています。
サンダー杉山には1-1の時間切れで、テーズ同様に杉山には敬意を払いつつ、公式戦ではジャーマンで勝利しています。さらにはラッシャー木村にも勝利。
こうしてみると、自分の格はきっちりと保ち、日本人選手にも安易な星は許さない姿勢は貫いていますね。
優勝はロシモフに譲ることで、ギリギリ、業界人としての秩序は保っていますが、完全なフォール負けは拒否しているし、毎回こういう感じだと、プロモーターにとってはかなり厄介な存在であったことは、間違いないでしょうね。
ビル・ロビンソン 83勝2敗(1リングアウト負け、1反則負け)39引き分け
ロビンソンの場合は、ヨーロッパマット以外では、国際プロレスで初めてスターになったレスラーなので、多少事情は違っています。
ヨーロッパ王者としての初来日となった1968年4月。杉山との防衛戦では1-1の後両者リングアウト。豊登との防衛戦でも1-1の後、両リンで引き分けています。
両リン・・・はいかにもプロレス的な決着で、それに従う姿勢は見せつつ、しかし日本人レスラーへの負けは拒否するという、柔軟性と頑固さの両面を見せていますね。
秋のワールド・シリーズでは、これもシューターと呼ばれたジョージ・ゴーディエンコと公式戦で引き分け、決勝リーグでは2-1の勝ち。
ピーター・メイビア(ロックの祖父)には暴走しての反則負けでヒートさせつつ、豊登と公式戦で両リン、決勝リーグでは1-1の引き分けで、その結果ワールドシリーズに優勝し、初代IWA世界王者に輝きます。
正統派で人気もあったロビンソンを、いっそ国際プロレスのエースに就かせてしまうという、吉原社長の思い切った決断でしたね。
1969年の前半戦は、エースとして君臨して、シングル29連勝。グレート草津、ラッシャー木村、スタン・スタージャック、アルバート・ウォールらを退け、タイトル戦も5回連続防衛しています。
ロビンソンはベルトを持ったまま日本を離れ、その間に、海外修行を終えて帰国したストロング小林が台頭するという流れになります。
1970年3月のワールドシリーズに来日したロビンソンは、この小林とドラマを作るミッションを与えられ、前哨戦を1勝8引き分け(2試合の両リンを含む)と拮抗した戦績を許します。
このへんはやはり、国際で育てられたという恩義を、多少なりとも感じていたのでしょうかね(ボディビルから転向して3年目の小林に、ロビンソンに対抗する力があったとは思えませんから)
しかし決勝ではきっちり2-1で小林に勝っているので、前哨戦は譲っても本番は別、という構えも示しています。
さて、ロビンソンも本格的にアメリカマットに渡るということで、身辺整理的に?IWAのベルトを渡すタイミングになっていました。
しかしロビンソンは決勝後の防衛戦でも草津に2-1で勝ってしまいます。
だがその翌日、サンダー杉山に1-1の後、ロープに足をからめてのリングアウト負けで、ついに王座を明け渡すのでした。
この時杉山は「できれば小林に勝って欲しかった。僕は顔がこんなだし、王者というガラじゃないですよ」というような発言をしていましたが、これはある程度本音でしょう。
国際の方針としては、ルックスのいい小林か草津を王者にしたかったのは、想像に難くありません。しかしロビンソンの方でそれを拒否したのではないですかね。「負けるのはいいが、負けるならアマレス出身の杉山にしてくれ。それもフォール負け以外で」と言う風に。
ロビンソンの主張を飲んだため、思惑とは違う杉山政権が誕生せざるを得なかった・・・となると、ここはやはりプロレスの難しいところだと思いますね。
1971年のワールド・シリーズは、ゴッチ、ロシモフとは引き分け続きで優勝は逃すことになります。
ポイントは杉山、草津それぞれに0勝0敗2引き分けに終わっていること。
ゴッチはどちらにも勝っているのに、ロビンソンは引き分けで済ましたのは、吉原への義理立てとして、そのくらいは果たしたということでしょうか。
ただしラッシャー木村には3連勝していて、「譲るのは杉山、草津」までという、ロビンソンの線引きがあったのでしょうかね。
ロビンソンはアメリカ・マットに渡った後、1972年9月に来日。
この時の戦績が凄くて、IWA王者の小林とは5戦して5連続引き分け(2試合が両リン)、草津とは2戦して2連続引き分け(1試合が両リン)、そして杉山とも1戦引き分けで、何と主力級とは8戦して全戦引き分けの怪記録でした。
ロビンソンは負けたくないし、かといってそろそろ小林や草津も強いところを見せなくてはならない時期、ということで、とにかく引き分けにしておくしかない。
といって連日時間切れ引き分けではへばるから、試合を早く終わらせる両者リングアウトもまぜて、体力調整をはかったということでしょうか(こういう意味で、装置としての両リンは、否定できないところもあります)
その小林の離脱後の1974年、ロビンソンはラッシャー木村を破って、IWA世界王座に返り咲きます。
しかしここでも草津とは1-1の後、両リン試合を演じているのが興味深いですね(これは草津の方から、「ロビンソンに負けるのは木村にまかせる。俺は嫌だ」と言った可能性もありますが)
秋の来日ではバーン・ガニアのAWA世界王座に挑戦し、1-1の後、両者ダブルノックアウトで引き分け。現IWA世界王者だったマイティ井上とは1-1で引き分けで、そこは顔を立てていました。
これがロビンソンの国際プロレスへの最後の来日となりました。
ゴッチと違って、引き分けまでは融通を利かせるロビンソンでしたが、その代わりフォール負けは極端に嫌っていたことがわかりますね。
テーズは、本番で勝つなら前哨戦ではフォール負けしてもいいタイプ。
ゴッチは引き分けも嫌いなタイプだが、ハプニング的なものならフォール負けもやむを得ないと受け入れもする。
しかしロビンソンは、引き分けには寛容だが、どんなにアクシデント的な形でも、ピンフォール負けだけは絶対に拒否する。
と三者の、微妙な対応の違いが興味深いです。
いずれにしても、こうしてみるとやはり「シューターとの交渉はガチなハードワークだなあ」と思いますね。
彼らの側の「譲れない一線」の主張が絶対的にあるし、それを否定したら「じゃあ、リング上であなたんところのレスラーに恥かかせますよ」という話になりかねない。
その一方で、ゴッチだろうとロビンソンだろうと、プロレス村の人間として、村の繁栄がなければ個人の繁栄がないこともわかっているから、ギリギリのところで「団体の営業と個人のプライド」を両立させる努力もしたでしょう。
だからこそあえて、「ブックにはガチの匂いがする」と、言いたいわけです。