力道山が発掘した第2のアングル男と、世紀の大暴動~プロレスブック考察⑤
前回、力道山が最初に生み出した「アングル・レスラー」として、ミスター・アトミックを紹介しましたが・・・今回は、力道山が発掘した第2のアングル男、リッキー・ワルドーについて、取り上げたいと思います。
私はもちろん、世代的にもこのワルドーなるレスラーの試合を見たことはありません(映像も残っていませんので)。しかしながら試合の戦績を見ているだけで、妙に魅せられるというか・・・ブッチャーやシン、今でいえばザック・セイバーやゲイブ・キッド、ジャック・モリスのような・・・「日本で絶対に成り上がってやる!」という意欲を持ち、それを買われて引き上げられたレスラーの元祖ではないか、という気がしたんですね。
そのあたりを実証するために、ワルドーの東京地区での試合ぶりを、検証していきたいと思います。
リッキー・ワルドーとは・・・
門茂雄の本によると、リッキー・ワルドーは1960年(昭和35年)のある日、力道山に売り込みをかけてきた、まったく無名のレスラーだったそうです(香港に流れて荷上げ労働者をやっていたそうです)。
「日本で試合させてくれ」と懸命にアピールするものの、貧乏から身体はガリガリに痩せていたそうです。
しかし力道山は、そのどこか愛嬌のあるルックスが、当時ブームだったダッコちゃん人形に似ていることから、「うまく育てたら人気者になるかもしれない」と閃き(とんでもない閃きですが)、彼を鍛え上げて、日本でデビューさせることに、決めたそうです。
そうして・・・
1960年8月
8月5日 プロレスC 吉村・芳の里2-1ワルドー・ジャクソン
8月19日 台東 豊登・遠藤2-0ワルドー・カーン
<日本ジュニア>吉村1-1芳の里
やせ細っていたワルドーは、数か月のトレーニングですっかり肉体をビルドアップさせて、晴れて日本マットデビューとなりました(デビュー直前の馬場・猪木と同時期にトレーニングしていたことになりますが)。
デビュー戦ではいきなり芳の里からフォールを奪う殊勲をあげたワルドー(厚遇を与えられた、か?)
当時の記事を読むと、技らしい技はなく、頭突きとボディブローの連打のみで勝負していたと云いますが、それが愛嬌あるルックスと相まって、妙なインパクトを与えたようです。
1960年9月
9月2日 プロレスC ワルドー(体固め)吉村
9月30日 台東 <アジア>力道山1-1ワルドー
9月に入ると、ワルドーの売り出しが本格化。なんと、当時日本プロレス界
ナンバー3の実力者・吉村から堂々のフォール勝ちしてしまったのです。
吉村は翌年のワールドリーグでカール・ゴッチ(クラウザー)と再三引きわけた実力者です。その吉村の首を差し出したのは、無名のワルドーに箔付けさせ、タイトル挑戦者に持っていくためでしょうか。
力道山はそれほどワルドーに手ごたえを感じていたのでしょう。
そして9月30日、力道山はワルドーの挑戦を受け、アジア王座の防衛戦に
挑みます。
この日は馬場と猪木の記念すべきデビュー戦でした。しかし当時のプロレスファン的には、「ついに力道山とワルドーの対決が見られる」というところが、最大の見どころだったのでしょう。
この日の試合は、両者リングアウトの後、ワルドーが反則勝ち。しかし1本目の両リンは0-0であると解釈され、試合は続行。力道山が1本取り返して、ドローに終わるという、今見ると不可解な結末でした。
当時の新聞記事を見ると、力道山が「これほど苦戦したことはない」と語っていて、ワルドーがブル・ファイトで、力道山と互角に渡り合ったことがわかります(渡り合わせたのかも知れませんが)。
1960年10月
10月19日 台東 <アジア・タッグ>2-0ワルドー・マッケンジー
この頃になると新聞紙面に「ダッコちゃんを彷彿とさせるワルドー」などという記事が踊り始め、力道山の思惑通りワルドー・ブームが巻き起こるのでした。
合流したカーチス・イヤウケアやテキサス・マッケンジーらアメリカのスター選手たちは、無名の黒人の人気に、いい気持ちはなかったと思いますが、
表面上は普通にタッグパートナーを務めるのでした。
1960年11月
11月16日 都体 豊登・吉村2-1ワルドー・マッケンジー
<インター>力道山2-0イヤウケア
11月25日 プロレスC 豊登・吉村・芳の里2-0ワルドー・
ジャクソン・トルコ
ワルドーは大阪で、イヤウケアと組んでアジアタッグに挑戦。
東京都体育館のインター戦はイヤウケアが挑戦者を務めました。
1960年12月
12月3日 台東 <アジア>力道山2-0ワルドー
12月9日 品川 力道山・吉村2-0サーダラシン・ワルドー
そうして力道山は、台東体育館のアジア王座戦で、ワルドーにきっちりと決着をつけます。
ワルドーのキャラクターは買いながらも、アメリカでの実績のないレスラーとして、「都体のインター」ではなく「台東のアジア」で決着をつける
あたりは、力道山も色々と考えていたのでしょう。
こうして、ワルドーの第一期のドラマは完結しました。
しかし実はワルドーのドラマは、この後の第二期の方が凄かったのです。
1961年夏に、常設会場のリキ・スポーツ・パレスが完成し、プロレス中継が隔週放送から毎週放送に変わったこともあり、より連軸性を持った展開が求められたこともあります。
ここからはまさに、昭和の、いや平成、令和のプロレスも顔負けの、「怒涛のアングル・ストーリー」が始まるのでした・・・
1961年12月
12月8日 リキ 豊登0-0ワルドー
力道山・吉村1-0キング・フー
(エチソン・ハミルトン)
12月14日 台東 <アジアタッグ>力道山・豊登2-0ワルドー・
ハミルトン
12月15日 リキ レンジ2-0吉村
力道山・豊登・遠藤2-0ワルドー・エチソン・
ハミルトン
12月22日 リキ 吉村・遠藤1-1ワルドー・レンジ
エチソン2-0力道山
12月29日 リキ 力道山2-0ワルドー
1年ぶりに来日したワルドーは豊登と引き分け。
メインで力道山組はキング・オブ・マスク、ミスター・フーという怪覆面
コンビと対決します。ところが観戦していた前シリーズの主役ゼブラ・キッドが「お前らの正体はわかっているぞ!」と挑発すると、激高した二人はマスクを脱ぎ捨て、ロニー・エチソン、ロッキー・ハミルトンという、一流レスラーの正体を明かしたのです。
このハプニングにさしものワルドーもその存在が霞む・・・と思いきや、何とここで、エチソン&ハミルトンに対抗するように「ワルドーの従兄弟」が急遽呼び寄せられ、新タッグが結成されるという超展開が起こるのです。
そのワルドーの従兄弟(本当に従兄弟だったかは疑わしい)・・・こそがルター・レンジで、こちらの方はルー・テーズにも挑戦し、テーズから「対戦したレスラーの中でもベスト5に入る」と言われた、正真正銘、ガチな実力者なのでした。
レンジは初戦で吉村をバックドロップで戦闘不能に追い込み(また吉村が
やられ役ですが、こちらの方は実力どおりかも)、人気のワルドー、実力のレンジという最恐タッグが実現。エチソン・ハミルトンのストーリーに、ワルドー・レンジのストーリーも重なるという、恐らくは日本初の多層的ストーリーが勃発するのでした。
おかげで力道山は、エチソンには反則負け、ワルドーには反則勝ちというてんてこ舞い状態で、いい感じにファンのフラストレーションをためるのでした・・・
1962年1月
1月5日 リキ ワルドー・レンジ・ハミルトン1-0力道山・豊登・
吉村
1月20日 台東 力道山・豊登1-1ワルドー・レンジ・ハミルトン
1月21日 台東 <アジアタッグ>エチソン・ハミルトン2-0
力道山・豊登
1月26日 リキ 吉村・遠藤2-1ワルドー・レンジ
ハミルトン2-0力道山
外国人タッグの先陣を切って、アジアタッグに挑戦するのはエチソン・ハミルトンに。
力道山組はここで快勝してワルドー組との対戦に臨む・・・と思いきや、そんな簡単な展開にはならず、何とエチソン組にストレート負けしてしまいます(1本目を力道山がエチソンから取られ、2本目は反則負け)。
反則含みということで王座移動はなかったものの、ワルドー組との対戦の前に、エチソン組と決着戦をしなければならない・・・という引っ張り具合を見せ、ファンをやきもきさせます。
力道山はハミルトンにも反則含みでストレート負け。仕掛けの要素があるにせよ、これだけ力道山が集中的に負けるのは珍しく、そんな荒れた状況が、あの事件に結びついていきます・・・
1962年2月
2月2日 日大 ワルドー(体固め)遠藤
レンジ2-0吉村
<アジアタッグ>力道山・豊登2-1エチソン・
ハミルトン
2月3日 日大 <アジアタッグ>ワルドー・レンジ2-1力道山・
豊登
2月9日 リキ ワルドー・レンジ1-1エチソン・ハミルトン
2月15日 日大
2月16日 リキ アトミック・ワルドー2-0力道山・吉村
そうして迎えた運命の2月。
日大講堂2連戦。初日は力道山組が、エチソン・ハミルトン組に対して、
ようやく完全勝利をあげます。
しかし同日、吉村、遠藤を難なく料理したワルドー、レンジが、2日目ついにアジア・タッグに挑戦。ここで力道山・豊登組は完敗し、虎の子のアジア・タッグを奪われてしまうのです。
これに怒った観客が大暴動を起こし、椅子を投げつけ、警察隊が出動するという、プロレス史に残る事件が起こってしまったわけです(力道山が「必ずベルトを奪い返します」と約束して、暴動を収めたと言われています)。
この暴動の話は、私はプロレス史の出来事として知ってはいたのですが、「当時のファンは血の気が多いなあ」という程度の感想しか持っていませんでした。しかし今改めて、それに至る流れを見てみて、認識が変わりました。
ファンは12月からの、日本勢がやられまくる展開に、丸2か月間、フラストレーションをためっぱなしだったのです。ようやくその憂さを晴らせるかと思ったら、その試合で力道山組が惨敗。
こんなことになったら、今のファンだって、暴動はしないにしても、相当に荒れた気持ちになるはずです。
つまり、そのくらい、良くも悪くも「どぎつい、きわどいアングル」を、この時力道山は、実行したのですね。
しかもこの日大暴動の後、ワルドー・レンジ組とエチソン・ハミルトン組が
直接対決するという、異例のカードが組まれます(レフリーは力道山)。
これはアジアタッグをめぐるストーリーの一環なのかもしれませんが、一方で、確実にあったであろう、黒人選手と白人選手の対立を、リング上に持ち込むという、これも画期的なアングルであった可能性もありますね。
そうして迎えた日大講堂でのリターンマッチ。力道山は逆エビ固めでレンジに血反吐を吐かせるという、凄まじい勝ちっぷりで、今度こそ完全決着をつけるのでした・・・
その後のワルドーと、総括
初来日の愛すべきムードから一転、暴動を起こされるほど憎まれてしまったワルドーは、その後も日本に残り、元祖アングル男のミスター・アトミックや、マイク・シャープ、さらにはスカル・マーフィら一流レスラーらのタッグ・パートナーを務めましたが、レスラーとしての大きな役割は、終えた感じになりました。
しかし「アメリカで無名のレスラーが日本で成り上がる」「妙な愛嬌でファンに愛される」そして「最恐タッグでファンをヒートさせる」という要素は、後年のアブドーラ・ザ・ブッチャーのプロトタイプになった、と言って過言ではないでしょう。
また、ワルドーを生かすための力道山の戦略が素晴らしいですよね。
この時期にこれだけ複合的な連続ドラマを作れるとは、プロレス頭としても天才的です(この一連の試合を見ていたであろう猪木にも、影響を与えたのではないでしょうか)。
ぶっちゃけ力道山というと、ルーテーズ、ブラッシー、デストロイヤー戦との世界戦は語られるけど、このあたりの「アジア」周りの試合はフォーカスされないじゃないですか。
だけど、実はこのあたりにこそ、プロデューサー、ブッカーとしての力道山の本領が見える気が、改めてしましたね。切り札のインター選手権を開催せずに、3か月持たせちゃったんですから。
ワルドーの試合は、全く見たことはない私ですが、試合記録を見ただけで、血沸き肉躍るものが、ありました・・・
余談
リッキー・ワルドーは、力道山を刺殺した村田勝志と喧嘩して、彼を殴り飛ばしたという話があります。
村田はそれでプロレスラーへの恐怖心が染み込み、力道山に組み伏せられた時、刃物を取り出した・・・という説もあります。
だとしたら大変な因果を生み出してしまったわけですが・・・
力道山の死後、彼が来日しなくなったのは、そのことと関係があるかはわかりません。
見ていない
プロレス頭でも天才
村田