見出し画像

14年ぶりに読んだ仮面の告白①

三島由紀夫『仮面の告白』を中学生ぶりに読んだ。その頃は、いわゆる名作と言われるものを、闇雲に読み漁っていた。三島由紀夫の作品は『金閣寺』『潮騒』も同時期に読んでいた。情景がすっと入ってくるし、倒錯した欲望が分かりやすく(?)描かれているので、読みやすく面白いという印象を抱いていた。

まだ、はじめの方しか読んでいないが、途中経過の読書感想文ということで、書いておく。(最後まで読んだら、周辺知識も仕入れた上で改めて感想文をあげたい。)

悲劇的なものの記憶

幼少期から青年期にかけて、「私」の性癖形成に影響を与えたエピソードについて、五感に訴えるような描写で語られている。
個人的に共感を覚えたのは、汚穢屋(糞尿汲取人)に対して、倒錯的な憧れの念を抱くところだ。
「私」は汚穢屋を見た時の情景を「最初の記憶」「私の半生を悩まし脅かしつづけたもの」と語っている。

坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頰と輝やく目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋ーー糞尿汲取人ーーであった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とては定かではないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたのであった。

三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫p. 11

「私」は「汚穢屋になりたい」という憧れを抱くようになる。その欲求には二つの重点があっったと振り返っていて、一つ目は紺の股引きにフェティシズムを感じたこと、二つ目は彼の職業に「悲劇的なもの」を感じたことである。この「悲劇的なもの」というのが、どう理解したらいいか難しい。

彼の職業から、或る「身を挺している」と謂った感じ、或る投げやりな感じ、或る危険に対する親近の感じ、虚無と活力とのめざましい混合と謂った感じ、そういうものが溢れ出て五歳の私に迫り私をとりこにした。

三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫p. 12

汚穢屋の仕事は肉体的に(精神的にも?)負担がかかるものであり、また仕事の内容的に心からすすんで行うようなものでもないのだろう。また人間の糞尿という、ゴミともまた違った完全に無価値なものを相手にしながら、労働者らしい活気に満ちていた様子を、「私」は肯定的に捉えた。「私」の心を捉えたのは、汚穢屋のまっすぐ日のあたるような側面ではなく、人間の陰の側面であることは間違い無いだろう。

この体験を出発点として、花電車の運転手や地下鉄の切符売りにも同じ「悲劇的なもの」を連想し、この主題を発展させている。

私の官能がそれを求めしかも私に拒まれている或る場所で、私に関係なしに行わ
仮れる生活や事件、その人々、これらが私の「悲劇的なもの」の定義であり、そこから私が永遠に拒まれているという悲哀が、いつも彼ら及び彼らの生活の上に転化され夢みられて、辛うじて私は私自身の悲哀を通して、そこに与ろうとしているものらしかった。

三島由紀夫『仮面の告白』新潮文庫p. 13

汚穢屋に惹かれた時の理由にさらに加えている。自分がその場において無関係な存在であり、その状態は永遠といえるほど絶対的に約束されている。どれだけ強く望もうとも、自分が彼になり変わることは叶わないという、決して実現されない欲望が、私自身の悲哀である。「私」は届かぬ理想に胸を焦がすことで、苦しくも甘美な官能を感じている。

自分の子供の頃は…?

こういったこじれた願望を感じてしまったことは、誰しもあるんじゃないか。なぜか自分を興奮させてしまう嫌悪感に触れたことがあるんじゃないか。最近らしい俗な言い回しでいうと「性癖が歪む」ような、自分には届かないある意味「尊い」存在。いくらでも身近な現象に引き付けて、理解できてしまう。

現在の自分に認められる「歪んだ性癖」の数々について、思い返してみれば幼年時代にまで遡る鮮烈な記憶が眠っている。あまり人に事細かに説明しようともしないので、昔の記憶を奥底に置き去りにしている。

この汚穢屋のエピソードに、眠っていた記憶の回路が少しくすぐられた。日常的にほとんど思い起こしていないということは、そういった概念は掘り下げられることもなければ、それ以上発展させられてもいないということだ。

心に湧き起こった快感や、不快感について、深い内省を行う習慣が消え失せていたことに気づく。そうした心の旅をしていた頃を懐かしく思い返す。









いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集