英語を話せるようになりたいorコミュニケーションを取りたい?
こんばんは。Mr.Gです。
本日は、「コミュニケーション」というテーマで考えてみようと思います。
巷では、猫も杓子も 「英語!英語!Let's English!」
中には、「アタクシ、音楽は洋楽しか聴きませんのよ」
(最近は、K-popの方が多いかな?)
というスタンスの人もいらっしゃるようで。
(昔、付き合っていた人もそんなこと言っていたっけ。外大の英語専攻の人だから、そんなもんだろうって、あまり気にしなかったけれど)
どんな音楽を好み、
どんな考えの下、
どんな言語を習得したって、
もちろん自由であり、
小言など、滅相もございません。
ただ一つ、Mr.Gは思うのです。
「日本語すらまともに操れない人間が、英語だ、中国語だ、フランス語だなんて…顔洗って出直して来いっ!」
ここで言う、「日本語をまともに操る」というのは、どういう意味か?
「自分の気持ちや考えを、言葉を用いて相手に表現できるかどうか?表現しようとしているか?」
つまり、「言語化力」があるかどうか?
という意味です。
例えば、こんなことありません?
・自分の気持ちや考えをうまく言葉にできず、もどかしい。
・他人に説明しても、イマイチ理解を得られず、「結局、何が言いたいの?」と言われる。
・仕事などで文章を書いてみたものの、相手からイマイチよくわからないような反応される。
・仕事などで相手から来た文章を読むと、要点がわかりにくい。
このように、最も身近な言語である日本語をまともに操れない人間が、
外国語に手を出したところで、本当に役に立つのだろうか。
特に欧米は、他民族国家であるが故、子供のころから自分の気持ちや考えを言葉で表現する言語化力の訓練を積んでいる。
一方、日本はどうだ?
・以心伝心
・想いは伝わる
・詫び寂び
・共感力
・余韻
・俳句や和歌
・阿吽の呼吸
などのような、
あえて言葉にしない、
あるいはあえて少ない文字数で伝えることにより、
読み手それぞれの想像力を掻き立て、
それを「美」とする考えがある。
これは、欧米のように、言葉で気持ちや考えをハッキリと伝える手法と比べ、どちらが良いか悪いか、
という良し悪しの問題ではない。
あくまで、スタイルの違い。
だが、事実として、
子供の頃から言語化の訓練をし、
自分の我を前に前に押し出して生きることを余儀なくされ、
そうでないと生きていけない世界に身を置いている人間と、
奥ゆかしさを纏い、協調と共感を軸に相手を慮ることが美徳とされてきた、我々日本人。
そんな日本人が、チョイと外国語を齧っただけで、
ネイティブと渡りあえるとでも、本気で思っているのか?
なぜなら、
用いる言語が違うだけで、
本質的にはすべて言葉という手段を用いて、
何かしら自分の気持ちや考えを相手に伝える行為であることに変わりはない
のだから。
ちなみに、Mr.Gは、
余韻を残し、
相手の気持ちや考えに思いを馳せ、汲み取る。
この繊細で奥ゆかしい心遣いは、
感受性高い日本人ならではのとても素敵で素晴らしい能力だと考えます。
それは、
春夏秋冬の季節の違いを目や肌だけでない心でも感じられる感性。
夏に風鈴が奏でる音を聞くだけで、気温が下がったわけでもないのに涼やかに感じられる感性。
桜が風に舞い散る様子に、風流さと一抹の寂しさを感じられる感性。
これらをMr.Gは、世界に誇れる日本人ならではの豊かな感受性であると、感じるわけです。
だからこそ、
日本は神秘的な国であり、
とても魅了される文化と感性を持ち合わせた国であると、
外国人を惹きつけてやまないのでしょう。
しかし、
グローバル化した昨今において、日本でも様々な価値観が入り乱れており、
同じものを観たり聞いたりしても、それぞれの受け取り方があまりにも違いすぎ、
そしてその違いは、年代や性別に関係なく、同世代であっても時として理解不能になってきています。
それでも、ビジネスにせよ何にせよ、
他者と共に知恵を出しあい、行動することからは逃れられない。
どこまで行っても、人ひとりができることなど、所詮は限られているわけですから。
ならば、
様々な価値観を持った人間が共存する以上、
「言葉」という手段を用いてコミュニケーションをとる以上、
如何に自分の気持ちや考えを言葉に、より正確に変換できるかという、言語化力が大切
になってくる。
この考えが、決して飛躍した論理ではないと、ご理解いただけるものでしょう。
そもそも、なぜ人類はこれほどまでに複雑な「言葉」を持つことになったのか?
野生動物でも、もちろんコミュニケーションをとる時に言葉(鳴き声など)を用いることが知られています。
しかし、人間と同等レベルのコミュニケーションの幅と深さを持っている動物は数少ない。
なぜなら、それはそこまでの幅と深さが必要ないから。
一方、人間はどうだ?
先程、欧米は日本人と違い、子供のころから言語化力を磨いているという趣旨を書きました。
でも、それは彼らにとっては、そうしないと生きていけない世界だから。
例えば、アメリカ。
元々は、イギリスからの移民者によってできた国で、イギリスと戦争をして独立を勝ち取った国。
その後、ヨーロッパだけでなく、アジア、アフリカ、北欧、オセアニアなど世界各地から人が集まり、他民族国家となる。
そのため、英語をベースとし、スペイン語やフランス語、中国語など、数々の言語が身近で飛び交い、
肌の色も文化も風習もそれぞれ異なる。
となれば、そのような皆違うことが当たり前の世界の中で生き抜くためには、
日本のように「以心伝心」「話せばわかりあえる」
などと甘っちょろい事を言っていては、トラブルが絶えない。
下手したら命さえ危険にさらすことになる。
そこで、「言語化力」が必須となった。
自分の考え、スタンスを明確にするために。
今や日本も、(他民族国家とまではなっていないものの)価値観が入り乱れる状態になった以上、
如何に自分の気持ちや考えを言葉に変換して相手に伝えるのか。
この「言語化力」を改めて見直す必要があるのではないでしょうか。
まずは、最も精通している日本語をまともに操れるようになってから、
あるいは、操れるように力を磨くことと並行しながら外国語にも目を向けるべきであり、
ロクに日本語でまともに自分の考えや気持ちを言葉にできない人間が、
猫も杓子も「英語!英語!Let's English!」
と言っているのは、あまりにも表面的すぎると感じるわけです。
でも、外国語の発音って日本語にはない発音もあって、音の響きがカッコよかったり、
オシャレに感じたりする部分もあるのも、
よくよくわかります。
だから、決して外国語をディスっているわけではなく、
どんな言語を用いようとも、根底には「言語化力」が必要であり、
その重要性を理解しないまま、流されるように取り組んだところで、
結局はあまり意味が無いのではないか
と感じるわけです。
それに、今後ますます翻訳アプリなどが充実し、
英語に限らない世界中の言語が、アプリを用いれば会話でも文章でもコミュニケーション取れる時代になるだろうと想像できます。
皆さんは、どう思いますか?
これを読んでくれたアナタに、小さくとも学びがありますように。
さぁ、前進あるのみ!
Mr.G