ミュージカル「リトルショップオブホラーズ」感想
本日は、ミュージカル「リトルショップオブホラーズ」を観てきました。
以前から、テーマ曲のLittele Shop Of Horrors や Suddenly Seymour は良い曲だなあと思って知っていましたが(たしか、ジェームズ・コーデンがアリアナ・グランデ との Carpool karaoke で歌ってたのがきっかけ)、作品自体は初めて見ました。
上記2曲がミュージカルで聴けただけでも大満足。主演の三浦宏規さんの歌がとても上手くて感激でした。恥ずかしながら存じ上げなかったのですが、過去に「レ・ミゼラブル」のマリウス役も演じていたそうですね。見ておきたかった泣
内容についても、感じたことを新鮮なうちに少し。(ネタバレ有り)
作品に登場する人物の多くが、サディスティックかマゾヒスティックであったのが、印象に残りました。
一番典型的なのは、マゾな”オードリー”と、オードリーにDVをはたらく彼氏の”オリン”。
そんなオリンも有毒なガス(?)を吸うことで快感を得ているので、一方でマゾだと言えます。
オードリーに思いを寄せる、主人公”シーモア”は、飼育している食虫植物”オードリー2”にオードリーを重ね合わせて、自分の血を餌として与えているので、オードリーに対してマゾだと言えますよね。
シーモアの花屋の上司、”マシュニク”も、オードリー2が世間で評判になり始めると、その所有者であるシーモアに依存するような描写があります。
この原作である、映画Littele Shop Of Horrors は1960年代アメリカで公開されたそうです。1950年代、マゾとサディストが社会に増える大衆社会の性格を示した、フロムが主著の「自由からの逃走」を出版したことを考えると、作り手は、そのような社会を表現したかったのかなあと思いました。
作中のオリンが分かり易く示している通り、サディストとマゾは表裏一体。どちらも共依存に陥っているという意味では同じであり、そのような人々は作中で悲劇的な運命を辿っていました。
自分に自信がないシーモアは、食虫植物オードリー2は人の血を与えることで大きく育ち、それによって自分の社会的地位が上がっていくことに気が付きます。社会的により立派な人になれば、思いを寄せるオードリー(人の方)に振り向いてもらえると思い、血を与え続けますが、シーモアが貧血になると、オードリー2の誘惑によって(オードリー2に食べさせるため)殺人紛いのことをしてしまいます。シーモアは自分の地位が上がると共に、罪悪感は大きくなり、オードリー2のサディストもエスカレートしてシーモアはより気を病むようになります。最終的には最愛の女性オードリーまでもが自分が育て上げたオードリー2によって食べられてしまうという皮肉な結末を迎えます。
オードリーも、実はシーモアのことを想っていましたが、やはり自分への自信の無さから、DVと引き換えに貢いでくれるオリンとの交際を続けていたということを考えると、二人は似た者同士でした。
シーモアとオードリーどちらもが、ありのままの自分とありのままの互いを愛することができていたら、このような悲劇は起こらなかったのでしょうね、、
もちろん、これは現代おいても言えることだと思います。
誰かのことを大切に想うことは素晴らしいことは疑いないですが、
想いを寄せる人のためであれば何でも——自分を傷つけることや、誰かを傷つけること——することは心的には健康な状態ではないということです。
依存、ダメ、ゼッタイ。ということです。
自分を愛することができて、初めて誰かを愛することができるということをフロムが言っていたと思います。
自分が好きな自分の側面を好きでいてくれる人を大切にしたいものですね、、。
では。