トラップにシーンの主流を奪われても、ビートに雪が積もるGAGLEのカッコ良さは変わらない。
KOHH改め千葉雄喜の魅力を感じ取れているうちは、まだ現行の音楽を聴いていよう、と思う。
甲本ヒロトの歌詞をさらに素因数分解したような千葉雄喜の紡ぐ言葉の数々は、コンテクストが欠如したSNSに晒されながら育ってきた現代の若者たちの、刹那的な世界認識の代弁のように聴こえてくるし、若者たちを狂信的にフックするのは当然な気がする。そして同時に、この手の短絡的で針小棒大な自身への批評を一瞥して通り過ぎそうな彼のキャラクターも総じて魅力的である。
さて本題。
私は東北生まれナンバーガール育ちの身だが、学生時代は第一次ヒップホップブームの波もあってヒップホップに心酔する同級生や先輩が多かった。
私が幸運だったのは、当時一緒に遊んでいたそんな友人や先輩たちが単なるミーハーではなく、車のダッシュボードにO.C.やFIVE DEEZのアルバムが散乱していたぐらい感度の高いヘッズだったことである。
そんな友人や先輩たちの影響で私が「GAGLE(ガグル)」という名前を知ったのは10代後半の頃で、友人の車のステレオから何気なく『雪ノ革命(2002)』が流れてきた時だった。
私は思わず「誰コレ!?」と声を上げた。
GAGLEは1996年に宮城県仙台市で結成されたMCのHUNGER(ハンガー)、トラックメイカーのDJ Mitsu the Beats(DJミツ・ザ・ビーツ)、ライブDJのDJ Mu-R(DJミューラー)からなる3人組のヒップホップクルーである。ちなみにミツ・ザ・ビーツとハンガーは実の兄弟である。
「アイディアは寒い場所だと出ない」と言って志摩遼平を沖縄に連れて行った千葉雄喜とは皮肉にも対照的に、毎年雪が降りしきる地元・仙台を拠点に現在も音楽活動を続けている。
ちなみに同じく仙台出身で、まだ当時中学生だったDJ KENTAROにヒップホップのイロハとDJプレイの手解きをしていたのがミューラーとミツ・ザ・ビーツである。
雪ノ革命(2002)/ GAGLE
都合良く憩う(2002)/ GAGLE
屍を越えて(2005)/ GAGLE
Hi-DJ! (2007)/ GAGLE
Snowflake (2009)/ GAGLE
頭韻や脚韻やアナグラムのライミングを満遍なく詰め込みながらも抑揚のあるフロウでグルーヴ感を保っているハンガーのラップスタイルは、R-指定が自身のラジオ番組で「独特過ぎて真似できる人が居ない」と評したほど、聴いた人の耳に残るオリジナリティに溢れている。
また彼の「地元で勝負し続ける」という意思表示は、同時代のBOSS THE MCと同様にリアルタイムの、特に地方で活動していたラッパー達に「一つの方向性」という意味で多大な影響を与えたことをサイプレス上野も語っていた。
DJミツ・ザ・ビーツの作るトラックは、当のミツ本人が方々のインタビューでJ Dillaからの影響を語っていて、特に個人名義のアルバムやプロデュース業ではディラっぽい有機的なレイドバック感が際立っているが、ことGAGLEにおいてはPETE ROCK直系のメロウでジャジーなサンプリングセンスが最大の魅力である。それを自己流に昇華して世にドロップしたタイミングで言うなら国内ではNujabesよりも早かった。
ポジティブなバイブレーションと同時にストリートのフッド感も併せ持ったGAGLEの音楽性は、Common周辺のニュースクールな雰囲気とか、西海岸のハイエロ周辺みたいな本場さながらのオルタナティブっぽさがあった。単にショービズとかダーティーとかドープとかじゃなく、そのすべての要素が含有されていて、「俺らは俺らの街で俺らの美意識で楽しくやるからさ、せいぜいお前らも楽しくやれよ」みたいな、ピースフルだけど未必の故意のファイティグポーズが垣間見える佇まいがとにかくクールだった。
ほぼ毎年りんご音楽祭でアクトを務めるほか、SHING02やOvallとの共作などでもわかるように、GAGLEは本来の気質として最近の『チーム友達(2024)』に起因するようなメインストリームのサグいムーブメントやいざこざとは元々距離のあるポジションなので、フリースタイルダンジョン/KOHH以降のマイルドなヒップホップブームが続いている日本国内で、後追い世代のライトなヒップホップリスナーがGAGLEの音源にたどり着くのはいささか難儀ではある。
しかしながら、GAGLEが作るヒップホップは、現行のトラップブームが去った後も、ヒップホップファンが立ち返るべきカッコ良さが今も変わらず詰まっている。
それはヒップホップが生まれ育ったニューヨークと同じ、雪の降る大都市で生み出された、零下で澄み切ったクールでなカッコ良さである。
やっぱ雪景色の街並みに映えるヒップホップは良いよね。