なぜ『Chet Baker sings(1956)』は最高なのか。
これからジャズを聴こう、と思っている人に、マイルス・デイビスとジョン・コルトレーンを薦めるのは、スキー初心者をいきなり上級者コースに連れて行くようなものである。
よっぽど勘が良ければ何度も転びながら滑れるようになっちゃう、みたいなことはあっても、大概は打撲と擦り傷だらけでふもとまで降りてきて、「もうスキーなんて二度とやらない!プンプン!」となるだろう。
そんなわけで、当の私自身もモダンジャズとのファーストコンタクトは『Kind of blue(1959)』や『至上の愛(1965)』で、あと少しで「思ってたのと違う!難しい!もうジャズなんて二度と聴かない!プンプン!」となっていたところを、チェット・ベイカーの『chet baker sings(1956)』に救われた男である。
まずは釈迦に説法だとは思うが、ジャズの歴史についてざっくり。
ジャズの始まりは、アメリカ南北戦争と密接に関わっている。
1863年の奴隷解放宣言に伴って、南部の黒人奴隷たちは良くも悪くも「仕事」を失い、過酷な労働環境ながらも雨風は凌ぐことはできていた環境から完全に放り出されることになる。
そんな中、解散した南軍の鼓笛隊の払い下げ品だった楽器が元黒人奴隷たちのコミュニティに流入し、黒人の中でも比較的裕福だった楽譜の読めるクレオール(白人と黒人の混血)たちの主導のもと、元黒人奴隷たちは音楽活動で生計を立てるようになる。
これがいわゆる「ニューオーリンズジャズ」である。
その後1920年代になり禁酒法が制定され、ニューオーリンズの歓楽街が軒並み閉鎖されていく過程で、南部のジャズマンたちは演奏の場を求めて、アル・カポネの影響力でスピークイージー(密造酒バー)が盛んだったシカゴに活動拠点を移していく。ジャズマンたちは地元シカゴの白人ミュージシャン達と合流し、そこで生まれたのがスピーディーでグルーヴィーな大所帯編成の「スウィングジャズ」「ビッグバンドジャズ」である。こうしてジャズは禁酒法の間接的な影響によって、ブルースの延長にあるような牧歌的なニューオーリンズジャズから、クラシックの構成要素がふんだんに盛り込まれたエレガントなパーティー/ダンスミュージックに変貌を遂げることになる。禁酒法の廃止に前後して、ラジオや蓄音機、レコードが一般に普及しはじめたことで、ジャズは大衆音楽として全米中に拡がった。
この辺りまでのジャズはまとめて「プレモダンジャズ」と呼ばれ、初心者にとっても取っ付きやすいアンサンブル重視の「楽譜のある」ジャズなのだが、1940年代になるとチャーリー・パーカーが登場する。
客のいなくなった閉店後のニューヨークのジャズクラブで、演奏終わりのパーカーやディジー・ガレスピーらが少人数で集まってアドリブセッションを始める。これはコード進行を最低限守りながら、各々の楽器同士で、ロングタームの即興演奏でのコール&レスポンスを楽しむという極めてクリエイティブな新しいジャズ「モダン(ビバップ)ジャズ」の始まりであった。
リハモナイズや転調やメロディメイクをその場の演奏者のひらめきで繰り返すモダンジャズは、演奏者の技量や感性が試されるスリリングさが魅力で、その自由度の高さはジャズマンたちを虜にし、モダンジャズは瞬く間に「ジャズの主流」となっていくことになる。
当時、ダンスミュージックとして市民権を得ていたプレモダンジャズと比較して極端に芸術性の高まったモダンジャズのことを「踊れないジャズ」と揶揄する声も多かったが、「ダンスフロアのお客様が主役」だったプレモダン(スウィング/ビッグバンド)ジャズが、「演奏者が主役」のモダンジャズに取って代わったジャズ史における最も重要なターニングポイントであった。以降もハードバップやモード、フリージャズなど、ジャズはより崇高な芸術性を求めて進化していくことになる。
さて今回の本題。
チェット・ベイカーは1929年、オクラホマ州にてプロギタリストの父とピアノを嗜む母との間に生まれ、幼い頃にトランペットを買い与えられるような音楽一家の家庭に育った。
16歳で米軍に入隊し、管楽器演奏の腕を買われ楽隊演奏を担う。
マイルス・デイビスの『クールの誕生(1957 ※シングルリリースは1949〜50)』に感銘を受けたチェットは、1951年の米軍除隊後にロサンゼルスのジャズクラブでトランペッターとして活動を始める。アカデミックな音楽教育を受けていなかったチェットは楽譜が読めなかったが、トランペットの実力は一時期チャーリー・パーカーのバンドメンバーを務めるほどで、有能なサイドマンとして多くの演奏や録音に参加した。程なくして、カルテットとして参加していたバンドのリーダーだったジェリー・マリガンが麻薬で逮捕され刑務所に収監されたタイミングで、チェットはソロ活動を始める。
そして1956年、後世にまで語り継がれるジャズ史における大名盤『chet baker sings』を発表。
chet baker sings(1956)
チェットの叙情的なトランペットと、中性的でアーバンな歌声が聴く者を魅了するこのアルバムは、ビバップが羽ぶりを利かせた同時代において、ビバップ以前のアンサンブル/メロディ重視スタイルへの寄り戻しによって「夜の都会のアーバンでメロウな音楽」としてジャズを再定義したウェストコースト(クール)ジャズを代表する作品である。
「ジャズボーカル」に括られる作品でありながら、エラ・フィッツジェラルドやルイ・アームストロングらのパワフルなボーカルスタイルとは全くベクトルが違う訥々と囁くようなチェット独特の歌唱法は、遠くブラジルのジョアン・ジルベルトに影響を与え、その後のボサノヴァ創始のバックボーンになったという逸話は有名である。
特に同アルバムに収録された『My Funny Valentine』は、新旧あらゆるジャズマンにカヴァーされたジャズスタンダードナンバーだが、「チェットのヴァージョンが決定版」と評される完成度である。
まだビル・エヴァンスが日の目を見る以前、白人ジャズミュージシャンのトップランナーだったチェットは、アイドルのような甘いルックスも相まって、1950年代半ばはマイルス・デイビスと人気を二分するほどの時代の寵児となった。しかしながら、同時代のジャズマンたちのご他聞に洩れず、チェットもドラッグとアルコールに耽溺。逮捕や服役、数多のトラブルを繰り返し、何度か再起を図ったものの振るわず、生涯にわたって麻薬問題は彼を苦しめた。
チェットは1988年、アムステルダムのホテルの窓からの原因不明の転落事故により死去した(享年58歳)。
『chet baker sings』は、ビバップ以降の激しいアドリブ演奏や偶発的な不協和音を楽しむような玄人ジャズリスナーでなくても安心して身を委ねられるジャズアルバムであり、これからジャズを聴いてみたいという人には、マイルスやコルトレーンのアルバムよりも先に手を伸ばしてほしい作品である。
ビバップの先進性に面食らってジャズを諦めかけた私のような音楽ファンを、ふたたびジャズの門戸に誘う圧倒的な魅力を持ち、スウィングとビバップのいいとこ取りを絶妙な塩梅でマリアージュした、時代もジャズリスナーの蘊蓄も超越した圧倒的な完成度を誇っている。
そして何より『chet baker sings』は、秋から冬へ向かうこれからの季節にピッタリのアルバムでもある。
あなたもぜひ、洋服が長袖に変わった秋空のドライブに、カーペットを厚手に変えた部屋でのティータイムのお供に、チェット・ベイカーの歌声を。
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