大学教育が「役に立つ」とはどういうことか
(2023/9/10)
大学教員は原則として研究者ではなく教員として雇用されているので、一般社会からの理解という観点からは研究よりも大学教育の問題のほうが重要かもしれない。だとすると「大学教育は役に立たない」論に正面から向き合う必要がある。
外形的な「単位の実質化」は無意味。また「役に立つこと」はエクセルを教えることではない。陳腐化の恐れもある。ではどうするか。3点ある。
現時点あるいは近い将来企業が切実に求めているコアスキル、例えば「DXに不可欠なワークフローの抽象化と実装を〇〇によって行えること」のようなレベルのものを「可能な限り短時間・高効率で」身に付けさせる。これは残りの時間を最大限「そうでない」学習に割り振りつつ就業可能性を高めるため。
「概念型カリキュラム」などに則り学習内容を徹底して抽象化・一般化し、他の領域や対象に応用可能な形で習得させる。これはtransferrable slkillsやgeneric skillsといったものよりさらに抽象的で細かい単位の概念。それによってギリシャ哲学だろうがダークエネルギーだろうが「役立てる」ことができ、かつ陳腐化しない。
大学が、大学・大学院で学んだ人材を企業が活用して顧客価値・社会価値の創出に結びつけるための方法論を研究開発し、それを企業にコンサルテーションできるようにする。単に企業が大学での学びを軽視していると批判するのではなく「重視できるように」ガイドする。
こういったことを実現するには、優れた教授法を身に着けた教員が一斉配信で講義することも有効だろうが、これらを成立させるための研究開発も行わなければならない。また、各分野の「研究者」でもある教員が「学ぶべき一般概念」を抽出して教育内容を充実させることも必要である。これらは研究の質的向上にも結びつく。
この場合各科目の位置づけは、その科目内容を教えることではなく、そこに埋め込まれている「重要概念」(例えば「シニフィアンとシニフィエ」「トレードオフ」「外部不経済」「手段の目的化」「経路依存性」「ポテンシャル場」といったもの)を、その科目内容を通じて習得させる、ということになる。
これら「重要概念」は、他の科目でも繰り返し登場するはずである。学習者は、自らの興味のある科目内容を選択可能だが、その意味は、内容に興味があるからこそその「重要概念」を高い動機で学ぶことができる、ということ。
また、科目内容は動機づけ以外に意味がないかというとそうではない。特定科目内容固有の「質感」を体験することによってこそ、抽象的な重要概念に血肉を与えることができるのであり、それを再度具体化する際の予見不可能な多様な可能性に寄与する。そのことが、個人の人生を充実させ社会的価値を創造するための基盤となるはずである。
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