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専門性をめぐるメディアとアカデミズムの問題

(2022/3/11)

この意見に対して現役の記者から「いかにも学者さんの意見って感じ」「もっと多様な背景の人がメディアには必要」「あらゆるテーマに精通した人材を揃えることは総合大学でもない限り不可能」「その分野の専門知識がないと語ってはならないというのは、専門家の権威主義」といった異議の声が上がっていた。「社員のレベルアップが必須」との問題提起とその処方箋を「一つの意見」として述べていることに対しての、かなり強い拒絶反応だと感じた。

大学院レベルの知的訓練というのは何も特定の専門分野に精通するということだけではなく、隣接分野も含めたメタレベルの思考法や情報収集・評価手法、KnowWho等を習得するということであって、必ずしもすべての分野の人材を揃えなくとも確実にメディアの質は向上する。

次に、まさに「専門家の権威主義」を脱するためにこそ、専門教育を受けた非専門家が社会に遍在することが必要。メディアが専門家集団の信頼するに足るカウンターパートにならなければならない。

それから、専門教育を受けたからと言って決して「多様性」を失うわけではないし、市井の人々への感性が消えるわけでもない。それを懸念するならメディア組織の内部で長く過ごすことで失われる多様性や感性の方をまず問題視すべきであろう。

現実に生じているのは、「市民感覚」を掲げて専門性を忌避したメディアが、専門家に専門性をフリーライド的に、しかも都合の良い形で外注するという事態ではないだろうか。

一方で、「現実の日本の大学院教育」が、上記要請に応えうる機能を果たしているかというと、それはまた別問題である。率直に言って大きな問題があると言わざるを得ない。しかしだからといって大学院教育が必要ない、とはならない。大学院教育を活用しつつ、その質も向上させていかなければならない。

「隣接分野も含めたメタレベルの思考法や情報収集・評価手法、KnowWho等を習得する」というのを別の言い方をすると、「そもそも知識というものはいかにして生成されるのか」を理解する、ということである。これは国際バカロレアで言うところのTOK(Theory of Knowledge)に対応するものでもある。

昨今、大学院教育が「社会で役に立つ」ことを訴えようとしてtransferrable skillsなどという概念が提唱されたが、ディスカッション、プレゼンテーション、ライティング、数理処理、といった実際的なものを強調しすぎて却って、これなら経営コンサルタントの書いたビジネス書を読めば十分では?となりかねない。

むしろ重要なのは高度なTOKの修得。これは現実の日本の大学院教育では残念ながら全く不十分で、逆にこれが達成されていればどんな専門分野であろうと社会で極めて有用。ここまで考えると、冒頭で「拒絶反応」と書いたが、メディア関係者にそのように言わせてしまった責任はアカデミズムの側にある。

とはいえ、この状況は悪循環の因果ループによって作られたものとも言えるので、第一にアカデミズムの努力が必要なものの、それだけではなく社会全体で考えてほしい問題ではある。

更に踏み込むと、メディアに限らず(元ツイートでも触れられているが)官僚組織、そして企業や行政も含む、あらゆる組織に及ぶ「専門性軽視」の文化の問題がある。

専門性とは詰まるところ、共同体内の文脈や空気にとらわれない、事実と論理に基づいた普遍性の高い主張、である。必然的に共同体の内部から自己批判を行うことになる。専門性忌避はこの、「内部からの自己批判」を嫌う組織文化の現れだと考えられる。

理工系の院卒雇用率は比較的高いが、これはもしかしたら「内部からの自己批判」にあまり関係のない部分で人材を機能させやすいからではないのか。
だとすると院卒雇用率といった外形的な基準をいくら立てても、この組織文化が同じままなら院卒者が梯子を外されるだけである。

結論。内部からの自己批判を歓迎する組織文化を社会全体で醸成しつつ、質の高い批判を実現する専門性を生み出すためには、「知識はいかにして生成されるか」を高度な水準で理解する専門人材を育成しうる大学院教育を実現することが重要。

補足すると、学問には、社会における多様性を鋭く掬い取る取る専門性、非専門性を取り扱う専門性、というものも存在する。専門家=頭でっかち=視野が狭い/現場を知らない、非専門家=庶民感覚=社会を熟知している、というのはステレオタイプではないか。

「非専門家」の多くはむしろ「自分の所属する組織や共同体の専門家」になってしまい、そこに埋没して共犯関係を形成し、それ以外の物事についての想像力を失ってしまうのではないか。専門性とは本来、そういったプロセスに抗う武器なのではないか(もちろん専門家集団自体に対しても)。

ただし繰り返しになるが、そのようなステレオタイプが蔓延している原因はアカデミズムにあるのではないか、理念型としての専門性/専門教育と、現実のそれらに無視し難い乖離があるのではないか、ということもまた問われなければならないことは言うまでもない。

日本のメディアには取材対象に謝礼を支払わない、という慣習がある。一方、メディアは取材対象の発言を引用すれば発言自体は「事実」なので免責される、という状況がある。これらはいずれも、メディアが取材対象の発言を検証しない、という問題に関係している。

どのみちきちんと検証するのであれば謝礼の支払いによる動機の歪曲はさしたる問題にならないし、引用=免責ともならないはずである。ではなぜ十分な検証を行わないのか。ここに先に述べたメディアと専門性との関係が浮上する。それに加えて、メディアのビジネスモデルの問題もある。

ビジネスモデルに関して言えば、日本の、特にマスメディアの指向する「全国民に向けての万能型メディア」はもはや耐用年数を過ぎているのではないだろうか。そのこともまた、冒頭で指摘した記者の「拒絶反応」と関係しているように思われる。

専門教育に関して、「社内教育ではダメなのか」と言われるかもしれないが、「自分の所属する組織や共同体の専門家」が密集した組織で「共同体内の文脈や空気にとらわれない、事実と論理に基づいた普遍性の高い主張」によって「内部からの自己批判」を行う人材を育成することはほぼ不可能であろう。

もちろん、大学院教育を受けた専門人材を採用すれば全ての問題が解決するとか、専門人材のやることは全て正しい、っといった簡単な話ではない。専門人材も間違う。しかし、間違い方が公共的なのである。

大学院教育を受けるということは、広い意味で専門家同士のピアレビューネットワークに参入することであり、このネットワークこそが今のところ専門性の水準を担保する最も強力な手段である。組織の一員となってもそのような横断的チェックが何らかの形で機能するならば、一定程度の水準は保証される。

間違えることが問題なのではなく、発見も原因の分離も対処もできない形で間違えることが問題。これらを可能にするためにはたとえ「擬態」であろうと専門性概念を導入し、それを内実を伴うものに日々改善していくことが必要となる。

追記:どうやら「大学院卒」という要件が「身分」のようなものとして受け止められているような気がする。大学院卒は単なる特定のトレーニングの成果を表す指標に過ぎない。誰であれ獲得可能。多様な背景が必要、と言うが、まさにその多様な背景を持った構成員の誰もがアクセス可能なトレーニングなのである。

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