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【東日本大震災から12年】「なぜ高台に逃げなかったのか」息子亡くした父、命の大切さ伝え続ける
「息子が自分を介して話しているんだと思う」。そう語った60代の男性は、東日本大震災の大津波で、地元の銀行で働いていた息子・健太さん(当時25歳)を亡くした。あれから12年。男性は自ら法人を立ち上げ、被災地を訪れる人々や全国各地の子どもたちに命の大切さを伝え続けている。
宮城県仙台市中心部から車で1時間ほど。震災当時、約1万人が暮らしていた牡鹿郡女川町。最大14・8メートルの津波が襲った地域だ。湾口が狭いリアス式海岸で、湾の中に入った津波が長時間出ずに被害が拡大した。町民全体の約6パーセントにあたる574名(2015年3月1日時点)が犠牲になり、人口は当時の6割程度まで減った。
■「津波怖い」迫る水面に恐怖 行員12名の命が犠牲に
健太さんが働いていたのは同町の銀行支店。屋上から海が見えるほどの位置にあり、一方で裏手には堀切山という高台があった。
11年の3月11日は14名の行員が出勤していた。午後2時46分、あの激しい揺れが襲った。「屋上に行って津波が来ないか海を見張っておけ」。揺れが収まると、支店長の指示で健太さんを含む2人の行員は屋上に向かった。他の行員は店内の施錠や片付けなどをしていたという。だがその時、支店長らによる高台への避難指示はなかった。
激しい揺れから約30分後、支店にも津波が到達。行員たちは高さ10メートルほどの屋上に駆け上がった。「津波怖い」。迫る水面に恐怖を抱く行員たち。その声は、じきに聞こえなくなった。行員12名の命が犠牲になった(うち8名は行方不明のまま)。
震災から約半年後となる9月26日、健太さんは遠く離れた場所で見つかった。25歳だった。
■なぜ高台に逃げなかったのか
女川町では高台への避難により多くの人々が助かった例もある。健太さんが勤務する銀行の裏手の高台に町民600名以上が避難し、生命を守りきったのだ。この場所は銀行から走って1分ほどの距離にあった。同町内にあった他の金融機関では大津波警報発令時、高台への避難が行われていた。
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なぜ高台に逃げなかったのか。男性は震災直後から銀行側の対応に疑問を持った。しかし、真実はなかなか明らかにならない。「なんでこんなことになったのか、知りたかった」と、最後は裁判に進展した。
■おかしいと言える環境を
「(組織の中で)おかしいと思ったらおかしいと言える環境が必要だ」。男性はそう声を強め、組織として緊急事態に対応することの難しさを訴える。「地形など地域の特性に応じた避難が大切。柔軟な対応も必要だ」。男性は再発防止のために、企業防災のあり方をあらためて考えてほしいと願う。
■命守ることの大切さ伝える
男性は今、命を守ることの大切さを伝える活動に取り組んでいる。19年11月には一般社団法人「健太いのちの教室」を設立。全国各地の学校での講演、シンポジウムへの参加、メディアを介した情報発信・・・などに奔走する。
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モニュメントや展示パネルなどがある「いのちの広場」を他の行員の遺族とともに設置した。
〈命を守るには高台へ行かねばならぬ〉〈銀行には一言「山へ逃げろ」と言ってほしかった〉〈東日本大震災を教訓に職場の命を守れ〉――。モニュメントの碑文には遺族の思いが刻み込まれている。
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■息子とともに活動している
今年3月上旬、関西などから集まった防災の研究者らが、いのちの広場で男性の話に耳を傾けた。「息子と妻と私の3人で活動している。息子が自分を介して話しているんだと思う」。3・11を前に、男性は前を向いた。【山口泰輝】