吾道一以って之を貫く
謹賀新年
本年も相変わらぬご法愛をもちまして、ご縁を結んで頂きますよう宜しくお願い申し上げます。
さて、大安禅寺では、大晦日除夜の鐘にはじまり、正月三が日と大勢の方がお参りにお越し下さっています。
有難いことに、「大安禅寺で新年を迎えることが私たち家族にとって幸せの始まりなんです。今年もお参りに来れました、有難うございます。」
このような言葉を参詣のお客様からお聞きすると、反対に私のほうが幸せのおすそ分けを頂いたように感じ嬉しくなります。それと同時に、更に護持護法に努めんと心が引き締まる思いにもなります。
また、新たなご縁もありますし、懐かしい知人や友人の顔を拝めることができる喜びは、毎年正月の楽しみでもあります。
人とは「ご縁」の中に生かされています。そのご縁に「良し悪し」と分別を付けることは出来ません。
人とのご縁、自然とのご縁、社会とのご縁、すべてが命とのご縁です。様々なご縁あって今日の「私」「あなた」がいるわけです。
どんなご縁も私が私であるために必要なご縁と感謝して生きてこそ合掌し祈る本来の自分の立ち位置が見えてくるものです。
そこで、今年の大安禅寺のテーマは・・・
「吾道一以って之を貫く」
毎年、一年のお寺のテーマを掲げるのですが、今年は当山にとって約10年という長期にわたる修復事業着工の初年ですので、この大事業を全うする願いを込めて、孔子の『論語』よりこの言葉を選びました。
この語で大事なのは「一」です。孔子は論語中にこの「一」を「忠恕」と記しています。専門家の読み取り方は別として、「真心」と言い換えてもよいと思います。「真心」を以って人生というものは全うするべきである。ということでしょう。
しかし、その「真心」は孔子の「一」であって、この語は禅語としてもよく用いられるように、禅は自分自身と向き合うことから始まるので、自分自身の問題と捉えた、自分の「一」をしっかり掴まなければ意味がありません。
詩人・八木重吉に次のような詩があります。
花は何故美しいか それは一筋の気持ちで咲いているからだ
八木重吉は、当時不治の病といわれた結核を患い29歳という若さで亡くなります。
その結核という、どうしようもできない受け入れ難い「ご縁」と相対し苦悩する日々の中で、詠んだ詩です。ですから、重吉自身が花のように一筋の気持ちで生きていきたいと願ったのではないでしょうか?
その「一筋」とは、花それぞれに、その季節になれば「無心」に咲き、時が来れば「無心」に散っていくその美しさに自分と重ね合わせ、私もそうでありたい。
と、私には聞こえてきます。
拘りを捨て、執着から離れてこそ、今日の一日を「生きよう」とする執着が生きてくる。
そして、重吉はこう詠うのです。
虫が鳴いている
いま ないておかなければ
もう駄目だというふうに鳴いている
しぜんと 涙がさそわれる
あっという間の人生だからこそ、今日を一所懸命に丁寧に、されどもがきながらでも生きていこうと。そんな力強さを、この二つの詩から私は読み取っています。
自分の今ここに生かされている立ち位置を知れば、今日の一分一秒の有難さに目覚める。すると、目の前の一つ一つの事に対しての所作も変わってきます。
どうしようもない人生、受け入れがたい人生、様々なご縁が入り混じるそんな雑多な道を私達はみんな歩いています。
それを人のせいにしても、ご縁のせいにしても何も解決は見えない。
答えは一つだけ。
どんな道も自らの心で照らし出し明らかにしていくしかありません。
それがどんな道をも楽しむ「道楽」になっていくのではないでしょうか。
もがきながらでも・・・
その道の交差点こそ、私達の出会いであり、その幾つもの交差点が私の人生を織成していく道となっていく。
それぞれの「一」を自らの心に問うてみよう。
そして、その「一」を信じて道を照らし明らかにしていく。
今日を大切に生きていきましょう。