「無依の道人」
現今目前、聴法無依の道人、歴歴地に分明にして、いまだ曾て欠少せず。『臨済録』
→今ここ、目の前で臨済禅師の話を聞いているその者が「無依の道人(むえのどうにん)」であり、そのままではっきりとしていて、欠けているところなど何一つもない。
①特別な人では無いということ。
②わたし自身の問題という自覚。
③常に自分自身を見つめるところから始まる。
④「不完全」と言う「完全」に気付く事。
今回は「無依の道人」について言及する。あくまで、これは一人の禅僧としての見解であり、私自身の味わい方として記す。
『臨済録』では「無依の道人」「無位の真人」「無事是貴人」など重要な言葉に、「人」を用いうることが散見される。また「道」「真」「貴」+「人」であるように臨済禅師の考える「人」とは「人」でありながらも、只の「人」ではないと考える。例えば今回のテーマである「無依の道人」の「道」に着目し考察するに、成仏の為の「修道」「菩薩行」という意味も勿論含まれているが、そのままの「道(みち)」と捉えても面白い。それは「平常心是道」と示衆で紹介されているが如く「日常」そのものであり、また同時代の「趙州石橋」「趙州四門」「大道透長安」のように「誰でも通す道」「出入り自由」「どこにでもある道」と相似ている。それは慧能禅師の云う「頓悟」、白隠禅師の云う「衆生本来仏なり」にも通じる。つまりは、仏道に入り段階的に修養しなければ悟れないのではなく、元より「仏の心」を具えるものであるからして誰しもが日常の中で、いつでもどこでも「幸せに生きていく心の在り方」に気付ける立場にあることを意味する「道」ではないかと考える。そこに臨済禅師の云う「人」としての在り方が示されていると読み取る。
例えば、道と言っても真っ直ぐな道だけではない。曲がりくねっている道、凸凹道、平坦な道、上り道、下り道。
言い出せば限が無いが、道一つ様々である。
できれば、平坦で真っ直ぐな道を歩んでいきたいものだが、決して自分の人生と照らし合わせて見ても、そのような道だけでは無かったはずである。
それを心に置き換えてみれば解ることで、誰しも生きていれば思い悩み、苦しみ、哀しみに明け暮れたりすることは、必ず1つや2つ有るものだ。勿論、その逆もしかり楽しく喜び溢れる日もある。だが、楽しんでばかりはいられないのも実情である。
このように悲喜苦楽交々あるのが私達の人生であり、どんな道であっても、その道を歩くのは自分でしかいない。
他人任せの人生は無い。
自分の人生というドラマの主人公は、やはり「私」自身だ。
どんな道に出会おうが、その道の歩き方を考え歩むのは自分自身しかいない。つまり、どんなご縁(悲喜苦楽)も自分を生かしめてくれているご縁だと気付き、そのご縁を生かしていくことが「無依の道人」の在り方に繋がる。
では、ご縁を受け止め、更にはそのご縁を生かしていくとは何か?
それは「不完全」な自分だからこそ「完全」である。ということに気付くことである。平たく言えば「頼っている私自身を知る」とも言える。
詩人、吉野弘さんに次のような詩がある。
生命は(いのちは)
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱いだき
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
詩集『風が吹くと』1977年
吉野さんが自然に ふと 目を向けた時、その情景はお互いがお互いを補いながら調和している世界だった。
そして、私達はお互い補いながらも
「互いに欠如を満たすなどとは知りもせず知らされもせず」
「無関心」
だということ、意識せずも補い合っている「私」
つまり「頼っている」ことさえ知らない「私」
その関係性に、とどまらずに自然と受け入れている「私」
うとましくおもっていても、受け入れている「私」
その私こそ「無依」ではないだろうか?
「無依」とは?
そこは、また次回。