円窓師匠と扇橋師匠はコーチングが上手
林家 源平
噺家は哲学者
僕に仕事をくださった三遊亭円窓師匠は、帰りの車中で、思案をしている様子で、僕の顔を見ながら、うーーーーんと言わんばかりに、悩んで
閃いた様子で、おもむろに
「源平。すべての落語を、四国の舞台にしたらどうだい。何も江戸でなくてもいいんだから。場所と人物を、そうだな、例えば田舎に置きかえて、好きな故郷を思ってさ、そうだ四国編の落語もいいんじゃないか。」
と、真剣に心配をしてくれるのであった。
僕もそんな考えがあるのか。と思いながら、一方で、どうしたらいいんだろうか。江戸落語には与太郎ものが出てきて、すっとんきょなことをやらかして笑いを誘う。
そう思えば、熊さんやはっつあんが出てきて、絶妙な掛け合いをする。まるで、漫才のようでとてもおかしい。それに、人情話と言ったら、しっかりものの女将さんが出てきて、かたや、ダメな夫というか甲斐性がないというか、ほほえましい旦那が出てきたり、旦那といえば、番頭さんが出てきたりと、人物描写だけを考えても、円窓師匠が教えてくれた発想の転換は易しくないと感じていた。
今までの落語を踏襲するような、エッセンを抽出しながら、故郷の、愛媛の良さを乗せて、愛媛にいる与太郎をどう演じるのか。あるいは、熊さんやはっつあんの掛け合いを演じ分けるのか。ない頭がフル回転しても答えらしいものが出てこない。
頭によぎるのは師匠三平の芸であり、女将さんやお嬢さんたちの思い出噺のような、まるでサザエさんのような、そんな落語であった。
師匠のような落語で何かできないだろうか。きっかけをつかめないだろうかと、小噺を考えては、どう古典落語につなげていくか。あの談志師匠や円楽師匠、なにより円蔵師匠のような軽妙な、そして笑いを誘うような落語ができないかと悩む日々。
とにかく新しい噺をと、考えた末、いろんな小噺をしながら、古典落語を演っていた。どうだ。できはどうなんだと感触がなく、高座を降り、楽屋にいると、
「源ちゃん。前半に、あれだけ受けてんだから、無理に古典に入らなくたって、いいんじゃない。古典に入って、尻つぼみになっているよ。まだまだ、課題が大きいよ。」
と、そっと入船亭扇橋師匠が言ってくれた。
そうか。お客様の笑いの様子や自分の明るさがどうか。いろいろな要素を考えながら、高座で演じるのか。無理に古典に入らないでもいいのかと思えば、少しは気が楽になる。課題があることはいいことだと言い聞かせて、自分の演じた落語を思い出しては次の噺をどうするか考えるのであった。
夜ぼーっと布団に入りながら、今までのことを振り返っていると、おちこぼれの僕に、これだけの師匠方が、夢と希望と、赤裸々に人間の有様を、見せて教えてくださったのは感謝しかない。言われたことを全部見つめて直したいと思う反面、一つやるので精一杯で、時折焦りを覚えるが、それでも師匠たちが見てくれているという希望を胸に、よしもういちょおと思うのであった。今のこの時も勉強を、続けなければと思った。
急に一生涯が、学びの人生と言った昔懐かしい学校の先生達の、顔一人一人思い出してきたのであった。先生達も落ちこぼれの僕をよく見ていたなぁって。色んな思い出とともに懐かしく思うのであった。