中国古典 北宋時代 「黄庭堅」
1045年―1105年没
黄庭堅は、字を魯直、号は山谷道人といい、黄山谷とも呼ばれました。
彼は、宋代の詩人であり、師の蘇軾や陸游と並ぶ大家でした。
黄庭堅は、王安石の新法党と対立し、地方の役職(進士)に就いていました。後に情勢が変わり、情勢が変わり、中央の役職に就くことになりました。その間、蘇軾ら多くの文人と交流し、一生で最も華やかな時期を過ごしました。しかし、また政局の変化により左遷され、最終的には流刑となり、六十一歳で病没しました。
彼にとって地方への赴任は決して不幸なものではなく、自然の中で詩や書、絵画に没頭できた理想の環境でした。また、仏教に帰依し、老荘思想に傾倒するなど、自由な精神活動を楽しむことができました。
黄庭堅は草書が得意でしたが、古人の用筆の奥深さに理解を得られず、俗気に囚われて長い間苦しみました。後に顔真卿や張旭、懐素の影響を受け、六朝時代の碑文から、丸みのある文字が連なる草書を確立しました。また彼の行書も洗練され、力強い独特な創造的書法を生み出しました。
これらの書法は後世に大きな影響を与え、北宋の書道界で傑出した存在となり、蘇軾や米芾、蔡襄と並ぶ評価を受け、宋の四大家と称されるようになりました。
〈松風閣詩巻〉
五十八歳時の作品
牙色の印花箋に自作の松風閣詩を顔真卿の筆意を兼ねた楷書で書いたもの。
湖北城の山に流刑中に遊んだ時、この地の風光を愛し、山中の松林に立てた一樓閣に「松風」という名付けたことを詠った詩です。
【釈文】
松風閣
依山築閣見平川 夜闌箕斗插屋椽 我來名之意適然 老松魁梧數百年
【口語訳】
松風閣
山によりそって築かれた楼閣、そこから広い長江が見わたせる。夜が更けると、箕・斗の星座が、軒端の垂木にかかっている。私はここへ来て松風閣と名づけたが、心によくかなっている。老松は高く厳つく数百年を経て、
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