見出し画像

いわゆる雑草の花を楽しむ by 前中久行(GEN代表)

======================
 ちょっとした土地があれば植物が勝手に生えてきます。いわゆる雑草ですが植物の生命力の強さに共感します。私の散歩道を彩る大切なアイテムです。雑草学では人間の目的を邪魔する植物が「雑草」です。雑草に何らかの価値を認めた途端に雑草は雑草でなくなるのです。今回のタイトルは論理的に破綻しているのです。
======================

 ここ2、3年は新型コロナウイルス感染症のため遠出を控えていました。自宅の近くを散歩する程度ですごしました。郊外に開発された住宅地ですが、散歩道の周辺には色々な草が勝手に生えています。いわゆる雑草です。それらを見ながら歩くのが私にはとても楽しいのです。市街地にもかかわらず自立的に生育している野生の植物の生命力の強さに感嘆させられます。

 いくつかの写真を紹介します。ブタナの花はタンポポとそっくりです(写真)。一本の茎がさらに枝分かれして複数の花が咲くのでタンポポと区別できます。ほぼ年中さいています。和名はブタナですが、英名を直訳するとネコの耳です。どこをみてもブタとかネコを連想する形態ではありません。もっとも植物名は固有名詞なので意味を詮索するのは間違いです。名は体を表すわけではありません。区別のための単なる記号です。日によって同じ時刻でも花が開いていたり閉じていたりします。陽の照り方だけでなく開閉の前歴が関係しているようです。スミレの類が道路と歩道の狭い隙間に列をなしています(写真)。狭い隙間なので他の大きな植物は侵入できないのです。太陽光を遮る競争相手がいないのでスミレの天国です。道路に続く草地にはユウゲショウの桃色の花が咲いています(写真)。

 “いわゆる雑草”という妙な表現をしましたが、それは以下のような理由によります。漢字の「雑」は多くのものが集まっている状態を意味します。多種多様であることが基本的な意味で色々な草という意味でしょう。多様性を表している重要な漢字です。お正月を祝う雑煮が劣った食べ物という意味でなく縁起の良い物色々の料理であることが「雑」の本来の意味を示しています。漢字の雑には本来は品質が劣るという意味は強くはないと私は考えています。整ったものを求める場合には色々混ざっていると好ましくないということでしょう。

 30年程前のことですが内蒙古自治区を訪れる時に中国の植生について下調べしました。草原の植生について「多彩的雑類草草原」の用語をみつけました。私がとても気に入っている表現です。多種多様な美しい野草が混在する亜高山植物のお花畑です。大同や蔚県など緑の地球ネットワークの現地活動地の近傍で「多彩的雑類草の草原」をみることができます(写真)。

 いっぽう雑草学でいう「雑草」は人間がある目的を持った時にそれを邪魔する植物です。植物の種類によって雑草か非雑草が決まっているわけではありません。草だけでなく樹木も雑草(weed)になりえます。同じ種類の植物が人間の目的によって雑草にもあるいは有用植物にもなるのです。近年の例としては有用植物であった竹林が放置されて拡大して山野を覆って問題になっています。有用植物から雑草への転換です。植物が変わったわけではありません。水辺のヨシは水質浄化や在来魚の産卵地として評価されています。もし水田に侵入すれば強雑草です。

 有用植物として導入した植物が逃げ出した例が多数あります。代表例として「テネシー河谷開発」(TVA)で土砂流出を防ぐために植えられた日本のクズが広がり大害草になっている事例があります。またシーボルトが観賞植物として日本から持ち込んだイタドリがヨーロッパの大害草になっています。海外ではクズ、イタドリ、スイカズラは日本起源の侵略性外来植物として有名です。中国での緑化植物としてクズが有名です。私が滞在した内蒙古の研究所にもクズの種子が届いていました、日本から届いた大切な植物、枯らしては大変ということで温室の中で保護されていました。

 一般的には雑草は価値の低い植物あるいは害をなす植物と理解されているようです。都市住まいの人を対象とした植物観察会でも「この植物は雑草ですか?」とよく質問されます。これは歴史的に日本列島の主要産業が農業であったことが反映しているのでしょう。さほど時代を遡らずとも人口のほぼ半分が農業に携わっていました。人々にとって、 農業生産を妨害する植物は明瞭に区別された一群の害草であったのです。伝統的な農法において、「中耕の意味が、 乾燥地においては毛細管連続を遮断し土中水分を保持することにあるが、湿潤温暖地においては除草にある」とされています。中耕の意味は黄土高原では毛細管連続の遮断、日本列島では除草なのです。雑草と戦うことは、日本列島においては勤勉な農民としての最低条件であったのです。

 このような人々の価値観が比較的均質な時代が続き、しだいに雑草と判断される植物が固定化されたと考えられます。すなわち、現実に害を及ぼすか否かを離れて、「雑草と呼ばれる植物群」が固定化し、その存在を許すことは農民としての規範に反するとの通念が確立されたのでしょう。「中農は草をみて草をとる、上農は草を見ずして草をとり、下農は草とらず」という江戸時代のことわざはこのような状況を反映しているのでしょう。

 街中のちょっとした隙間地で自然に発生・生育する野生の植物を視野に置くと散歩がさらに楽しくなります。雑草との付き合い方として、むやみに排除せず、害をなさないものは見守り、時には利用して楽しみましょう。もちろん侵略的外来植物や麻薬性の植物には厳しい対処が必要です。

さらに興味のある方へhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/56/1/56_1_15/_article/-char/ja/https://www.jstage.jst.go.jp/article/weed1962/46/1/46_1_48/_article/-char/ja/

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?