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私の環境研究ことはじめ #5 緑化協力の今までとこれから (インターン生 小林杏佳)
インターン生によるインタビュー「私の環境研究ことはじめ」。第5回目は、高見邦雄さん(GEN副代表)にお伺いします。高見さんはGEN発足時から、ずっと活動に携わってこられました。今回は、実際に高見さんが緑化協力に取り組まれた軌跡を伺いました。
◾️言語を超えて、人と繋がるということ
―高見さんが緑化活動を始めるまでの経緯を教えてください。
私が緑化活動に興味を持ったきっかけは、中国に行った際の環境問題への強い衝撃からです。1970年代末から1980年代初頭にかけて、私は何度か中国を訪れていましたが、特に1980年頃に重慶を訪れた際の経験が大きかったんです。嘉陵江が長江に合流するところで、工場地帯からの汚染水を見て、「これは大変なことになる」と感じたんです。日本だったらすぐ海に流れていってしまうけれど、中国ではその汚染が大都市を直撃する。それを目の当たりにして、中国の環境問題に関心を持つようになりました。
―その後、どのようにして緑化活動に繋がったのでしょうか?
1992年にリオデジャネイロで最初の地球サミットが計画されたことを受け、世界中で環境問題が注目されるようになり、何かできないかと思い始めました。当初は水や大気といった問題に関心を持ちましたが、これらはどうしても政治化しやすく、外国人が関与するのは難しいと感じました。その点、緑化や砂漠化防止の活動は、誰も反対しないし、木を植えること自体は素人でもできると思ったんです。こうした思いから緑化活動に取り組み始めました。
―最初に取り組んだ場所はどこですか?
初めてのプロジェクトは大同市の渾源県で始めましたが、簡単に成功するとは思っていませんでした。正直、成功を目指してやったというより、まずは試してみるという気持ちでした。緑化活動には非常に多くの困難が伴いました。例えば、春に木を植えて、夏に見に行くとほとんどの苗が枯れているということもありました。それでも、失敗を恐れずに続けることが重要だと思い、続けてきました。
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―中国で活動する上で特に大変だったことはなんですか。
やはり、言語の壁が大きかったです。最初は中国語が全然できなかったので、コミュニケーションが非常に難しかったです。「你好」「謝謝」「再見」「厕所在哪里?(トイレはどこですか?)」くらいしか話せなかったので、深い会話や交流はほとんどできませんでした。その中で、少しでも現地の人たちと関わろうと、特に子供たちと仲良くなることを心がけていました。
―当時印象的だった出来事などはありますか。
一番大きかったのは現地の人たちとのつながりですね。最初は、言葉が頼りにならない。その中で、子どもたちと一緒に遊んだり、ちょっとした会話をしたりしてるうちに、少しずつ顔を覚えてもらったり、受け入れてもらったりしました。それが一番ありがたかったし、印象に残ってます。
―子供達との交流から始められたのですね。
渾源県林業局長の温増玉さんと出会ったこともすごく印象に残っていますね。彼とは92年1月に初めて会ったのですが、その年の10月、県城でばったり再会したんです。彼の家が私の宿に近いことを知り、毎朝、彼の家で朝食をご馳走になることになりました。彼について農村に行くと、どこに行っても歓迎されるし、私もそのおかげでいろんな農村を回ることができました。だんだんと、現地の人たちの温かさが身に染みてきて、それがすごく印象に残っています。
―素敵なエピソードですね。高見さんは現地の人と心で繋がってこられたのですね。
そうして過ごしているうちに、だんだんと「言葉の壁を超える」っていうのがどういうことか、少しずつ分かってきたんですよね。言葉が完全に通じなくても、気持ちで繋がることはできると思います。
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―それでも、活動を広げていくには言語の壁が大きかったのではないですか?
そうですね。中国側に日本語が話せる人が必要だと思い、通訳を育てるために力を入れようということになりました。ある看護師さんが日本に研修に行ったことがあって、帰国後はだいぶ忘れていたのですが、再度勉強して本当に日本語を上達させてくれたんです。それがすごく役立ちましたね。王萍さんという女性で、日本からの専門家たちも、「王萍さんの通訳が一番頼りになる」と言ってくれるくらいだったので、その成長を見るのが嬉しかったです。
―現地の通訳の方の存在は活動を続けていく上で本当に大きな力となったのですね。
本当に、彼女のおかげで、どんどん仕事がスムーズになっていきました。ただ、彼女が通訳をするようになってから、自分で話すことが減ってだんだん話せなくなっていったんです。通訳がいると、どうしても「通訳に任せればいいや」となってしまって、昔は自分で話していたのに、気づいたらほとんど話せなくなっていました。昔の自分を知っている人たちからは「おい、高見、昔はよく話してたじゃないか!」なんて言われましたけどね。でも、やっぱり通訳がいてくれると、仕事が圧倒的にスムーズになりますし、王萍さんもすごく頑張り屋だから、通訳としての成長は本当にすごかったです。彼女がいなかったら、あの時期の活動はかなり大変だったと思います。
―GENの活動は多くの葛藤を経て現在に至るのですね。
最初は小さな活動だったんですが、時間が経つにつれて、広がっていきました。最初の頃は「成功するかどうか分からない」と思っていましたが、実際にやってみると、意外にもその活動が広がり、目に見える成果を上げることができました。例えば、大同では、植えた木が成長し、周囲の風景が大きく変わりました。これは自分でも驚くほどでした。最初は本当に小さな苗木を植えたのに、今では15メートルもの高さに育っています。
◾️これからの時代に緑化活動を続けることの難しさ
―緑化協力活動を続けるうえでの課題や展望について教えてください。
活動が進むにつれて難しさも増しています。特に今、いろんな状況が変わってきて、中国でも、最近は少し「日本嫌い」が増えていると聞きますし、もちろん日本でも同じような空気がありますよね。私たちが直接会う人たちはそんなことはありませんが、一般的にはそのような風潮があるのは確かで、環境や国際的な協力が厳しくなっているのを実感しています。また、かつてようにどんどん新しい場所を探して緑化を進めていくというのは難しくなってきました。植える場所もだんだん限られてきて、景観が変わる中で「ここを緑化しなければならない」という気持ちが薄れていくこともあるんです。そう考えると、やってきたことが一つの成果になったとはいえ、続けていく難しさというのは確実に増しているなと感じています。
―開始当時とは違う難しさがあるということでしょうか。
そうなってくると思います。中国は、世界の人工林の4分の1を超えていると言われていて、本当に環境改善に力を入れているんです。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、すごいスピードで進んでいます。再生可能エネルギーの分野でも、中国は風力発電や太陽光発電に力を入れて、世界でもトップクラスの企業を持っています。まだ石炭火力が主流だというイメージが強いかもしれませんが、実際はかなりの勢いで再生可能エネルギーにシフトしています。日本で再生可能エネルギーを導入しようと思うと、中国の企業と手を組まなきゃならないという現実があり、それが経済的な安全保障にどう影響するかという議論もあります。そうした変化を見ていると、本当に世界は様変わりしたなと感じます。
―環境問題は大きく改善されてきたのですね。
ただ、やはりこれからも緑化や環境活動は最も大切な分野だと思っています。人と人との交流や国際協力の難しさもありますが、それでも環境問題は一番優先されるべき課題だと思います。だから、今後も続けていきたいと思っているんですけど、やはり続けることの大変さは感じていますね。
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―最後に、今までの活動を踏まえて、これからの環境活動を担う次世代へメッセージをお願いします。
環境活動は一過性のものではなく、継続していくことが大切です。私たちは木を植えましたが、それで終わりではありません。植えたところから、樹木は育ち始めます。つまり、続けている限り、現在進行形だということです。次の世代には、私たちがやってきたことを引き継いで、さらに多くの人々が参加できるような形で活動を広めてほしいと思っています。特に、環境問題は地球規模の問題なので、どこで活動をしていてもつながりがあることを忘れずに、共に手を取り合って行動してほしいですね。