黄土高原史話<54>血で血を洗うドロドロの by 谷口義介
今回より肩書が変わったが、文章は中身と表現力で読ますもの。とは言い状、キレもコクもなきこと、諸兄姉すでにご明察のとおりです。
さて、北魏の三代目は、道武帝・明元帝をついだ拓跋燾(たくばつとう)太武帝(在位423~452)。明元帝の長子として408 年に生まれたが、まだ在世中の偉大な祖父は、「体貌瓌異」なこの孫を見て、「奇としてこれを悦(よろこ)び」、「わが業を成す者は必ずやこの子なり」(『魏書』世祖紀)と言ったとか。
本シリーズ< 52 >、雲崗(うんこう)石窟中で最大の第19 窟本尊は、雄偉な体躯・巨大な顔、仏像のイメージをはみ出して、勇猛な胡族の王者の風格あり。この像が道武帝をモデルにしたものとするならば、帝が常人と異なる体貌の嫡孫に自己をダブらせて見たのも、けだしむべなるかな。
史書にありがちな事後予言とも取れますが、祖父の野望を実現したのは、
この太武帝にほかならない。
即位以来、崔浩(さいこう)をトップとする漢人官僚の智慧とノウハウ、鮮卑(せんぴ)騎馬軍団の機動力・破壊力で、つぎつぎ各地を征服するが、その仕上げが439 年の北涼(ほくりょう)(甘粛省)の討滅。かくて華北の統一が完成し、五胡十六国時代は終焉する。
ところで、北魏王朝は三代つづけて仏教を尊信、平城(大同)とその周辺
にはつぎつぎ仏寺が建てられたが、保護された仏教側に堕落の傾向も現れる。そのうえ連年の外征で一人でも兵士が欲しいのに、僧侶は兵役の義務がなく、飢饉のおりも農作業が免除です。そこで北涼を滅ぼす前年に、帝は、50 歳以上の僧しか認めない、という詔書(しょうしょ)を出す。つまりそれ以下の男子には兵役と耕作の義務が生じたわけで、これが排仏の第一段階。この政策変更の背後には仏教嫌いの崔浩の動きがあり、寇謙之(こうけんし)(363 ~ 448)という道士を推挙して、帝を道教に改宗させ、仏教に打撃を与える策略です。440 年、帝号も年号も「太平真君」と道教風に改められ、446 年、道教は国教に格上げされる。逆に仏教側は弾圧を受け、長安では僧侶はすべて殺されて、仏像・仏典とも焼かれて灰となりました。このとき帝は外征中、平城にいた太子拓跋晃(たくばつこう)に同じ措置を命ずるが、仏教好きの太子はサボタージュ、僧侶の逃亡と仏像・仏典の隠匿(いんとく)をたすけます。結局、平城でも寺院や塔は破壊されてしまうのだが。
ここに宦官(かんがん)の宗愛(そうあい)なる者が登場し、宮中にて大波乱を引き起こす。帝と太子の不仲につけ込んで、太子の側近を帝に訴え、これを斬らせてしまいます。この事件で帝は「震怒」し、太子は「憂いを以て薨(こう)」じるが(『魏書』宗愛伝)、後悔した帝は、太子の遺児の拓
跋濬(たくばつしゅん)を自分のあとつぎと決めました。これを見た宗愛は、己れの身が危ういと、帝を殺してしまいます。ときに太武帝45歳。
宗愛は南安王拓跋余(たくばつよ)を即位させ、自分は大司馬・大将軍・太師を兼ね、最高実力者に納まります。だが「天性険暴(けんぼう)」なこの男、「権恣(けんし)日に甚だしく」、新皇帝はその実権を奪おうと企てるが、宗愛これを察知して、逆に殺してしまいます。このことを知った近衛将校が他の役人に連絡し、皇孫拓跋濬を擁立し、宗愛をば誅殺(ちゅうさつ)する。
宦官宗愛は、二人の皇帝を殺した稀代の妖人。
(『緑の地球』139号 2011年5月掲載)