ヴァレリー・ラルボー『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』訳者解題
『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』について
本書はヴァレリー・ラルボーの評論集『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』の全訳であり、日本語による完訳としては本書が最初のものとなる。底本はパリのガリマール社から一九四六年に出版された初版(Sous l’invocation de saint Jérôme)を用い、同じくガリマール社から一九五三年に刊行された『ヴァレリー・ラルボー全集 Œuvres complètes de Valery Larbaud』の第八巻(Sous l’invocation de saint Jérôme)および同社から一九九七年に刊行された増補版(Collection « Tel » )を参照した。
本書は第一部「翻訳者たちの守護聖人 Le Patron des Traducteurs」、第二部「技能と技芸 L’Art et le Métier」、第三部「技法 Technique」の三つの部から成る。そのうち第二部は前半の「翻訳について De la Traduction」と後半の「考察 Remarques」の二つのセクションに分かれており、大雑把に言えば、第一部と第二部の前半が翻訳論、第二部の後半と第三部が文学論や言語論と言えるだろう。以下に、本書の内容や成り立ちについて概観してみたい。
まず第一部の「翻訳者たちの守護聖人」は、ラルボーがポール・ヴァレリーやレオン゠ポール・ファルグとともに編集していた季刊誌「コメルス Commerce」の1929年秋号に発表した同名の文章を収録したものである。ここで「翻訳者たちの守護聖人」と形容される人物とは、言うまでもなく、本書の書名にも含まれている「聖ヒエロニュムス」、すなわちエウセビウス・ヒエロニュムスに他ならない。この人物は初期キリスト教の教父であり、何よりも聖書のラテン語訳である『ウルガタ』を完成させたことで名高い。ラルボーはヒエロニュムスについて、「ヘブライ語の聖書を西洋世界にもたらし、エルサレムとローマ、そしてローマとロマンス諸語のすべての人々、あるいはその言語体系にラテン語の単語や表現——それらは多くの場合、『ウルガタ』中のものであったり、『ウルガタ』の最もよく知られた節とともに慣用化したヒエロニュムスの単語や表現なのであるが——を加え入れたすべての人々をつなぐ大きな架け橋を建設した者であった。他のどんな翻訳者がこれと同じことをしたであろうか。他のどんな翻訳者がこれほど巨大な企てを、これほどの大いなる成功と、これほどの時空の広がりをもつ影響を伴って達成し得たであろうか」と述べて、彼に惜しみない賛辞を呈するのだ(本書52頁)。
先に見たように、ラルボー自身も多くの外国の作家や作品を翻訳し、またそれらについて論じ、「文学の仲介者」として多大な功績を残した。彼の訳業に関して補足するならば、前記のジェイムズ・ジョイスに加え、彼が翻訳を行なった英語圏の作家や詩人には、ウォルト・ホイットマン、サミュエル・バトラー、アーノルド・ベネット、ギルバート・キース・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton, 1874-1936)、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ナサニエル・ホーソーン、アーチボルド・マクリーシュ(Archibald MacLeish, 1892-1982)、イーディス・シットウェル(Edith Sitwell, 1887-1964)やロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson, 1850-94)、フランシス・トムソン(Francis Thompson, 1859-1907)などが含まれる。さらには、前記のアルゼンチンのリカルド・グイラルデスやメキシコのアルフォンソ・レイエスに加え、スペインのラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナやガブリエル・ミロー(Gabriel Miró, 1879-1930)、イタリアのリッカルド・バッケッリ(Riccardo Bacchelli, 1891-1985)、エミーリオ・チェッキ(Emilio Cecchi, 1884-1966)、ジャンナ・マンツィーニなどの作品も翻訳したのである。このような秀でた翻訳業績を評価して、フランスの翻訳(理論)家エドモン・カリー(Edmond Cary, 1912-66)はラルボーを「現代の翻訳者の真の王」と評したのだが、翻訳者ラルボーあるいは「文学の仲介者」ラルボーにとって、ヒエロニュムスは偉大な先達であり、大きな目標であったに違いない。したがって、本書第一部のこの文章はラルボーのヒエロニュムスに捧げたオマージュであったと言えるだろう。
そして、この「翻訳者たちの守護聖人」ヒエロニュムスへのオマージュには、この傑出した先人の功績を世の人々に想起させることによって、ラルボー自身もその一員である翻訳者の存在意義を強くアピールするねらいもあったものと思われる。この文章の冒頭にはこう記されている。
「おのれの知的人格を無化するほどに」原作者に「奉仕する」ことを「信条」とする翻訳者は「この上なく貴い資質や類まれな美徳」の持ち主なのであり、そのような高潔な人格の翻訳者が「軽んじられ」、「最下位に置かれている」ことはラルボーには到底受け入れ難いことであった。本書の第一部の文章には、こうした理不尽を正そうとする意図があったものと考えられるのである。
ところで、後に本書の第一部を占める、この「翻訳者たちの守護聖人」の文章を発表した3年後の1932年に、やはり後に本書の第二部および第三部を構成することになる19篇の論考を収めた評論集『技法 Technique』がガリマール社から刊行される。これらの文章のうち、本書の第二部(第一セクション)に収録されることになるのは「鉛筆の先」のみで、他はすべて第三部に収載されることになるのだが、参考までに、それらの18篇の文章の題目を収録順に列挙すると以下の通りである(カッコ内は初出)。
「新たな方針を打ち出すために」(「ヨーロッパ評論」誌1923年3月号)
「ルナン、文学史と文学批評」(「ヨーロッパ評論」誌1923年6月号)
「エミリオ・ベルタナとヴィットーリオ・アルフィエーリ」(「フランス゠イタリア」誌1914年)
「三人の美しい物乞い女」(「コメルス」誌1930年春号)
「残りはすべて」「マックス・ビアボーム、スタンダールとマシヨン」(いずれも「紙切れ Bouts de papier」の総題で、「ル・マニュスクリ・オートグラフ」誌1928年5・6月号)
「資料—いくつかの地名」「歌の娘たち」(いずれも「紙切れ」の総題で、「ル・マニュスクリ・オートグラフ」誌1929年3・4月号)
「選集」「ジョン゠ル゠トレアドール」「激しい嗚咽、統計の試み」「怠慢の罪」(いずれも「紙切れ」の総題で、「ル・マニュスクリ・オートグラフ」誌1930年3・4月号)
「成年に到達すること」「文学的な句読法」「むかつく連中」「生存競争」(いずれも「塩か砂 Du sel ou du sable」の総題で、「コメルス」誌1930年夏号)
「印刷業者への手紙」(「アール・エ・メティエ・グラフィック」誌1927年12月号)
「索引」
以上のような論考から成る『技法』の刊行を控え、1932年の3月から4月にかけてラルボーはギリシアのケルキラ島に滞在して、ゲラ刷りの校正を行なっていたのだが、当時の彼の日記には、「この評論集は準備中の著作、すなわち『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』の(それに向けての第一段階)」と記されており、この頃にはすでに本書の題名が定まっていたことがうかがえる。さらには、その目次が以下のように記載されている。
一、翻訳者たちの守護聖人
二、技能と技芸
三、歴史と批評
四、技法、着想から印刷まで
これから判断すると、この時点では本書は四部構成となることが想定されていたことがうかがえるが、章題を見比べれば、上記の第一部と第二部はほぼそのまま本書の第一部と第二部になり、第三部と第四部が統合、整理されて本書の第三部になったと考えてよいであろう。そして、同じ年の7月7日付けの友人マルセル・レイ宛ての書簡に、『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』について、「次の冬には仕上げたいと思っているので、そうすると、1年後には刊行できるでしょう」と記されていることからすれば、1932年のこの段階で、本書は題目のみならず、その構成や内容もほぼ固まっていたと言えるだろう。すでに述べた通り、著者のラルボーはこれより3年後の1935年8月に脳卒中に襲われるわけであり、この三年の間に本書の最終的なかたちが定まっていったのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ヴァレリー・ラルボー『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』をご覧ください。
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