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マックス・ブロート『ユダヤ人の女たち』訳者解題(text by 中村寿)
2024年12月23日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第45回配本として、マックス・ブロート『ユダヤ人の女たち』を刊行いたします。マックス・ブロート(Max Brod 1884–1968)は、チェコスロヴァキア・イスラエルの文筆家、音楽評論家、作曲家。プラハ大学ドイツ語部門にて法学博士の学位を得たのち、郵政官吏を経て、作家、評論家、翻訳家として人生を送ったユダヤ人作家です。最もよく知られている業績は、カフカの友人兼助言者、遺稿編集・紹介者、伝記作家としての仕事です。小説に『チェコ人の女中』、『アーノルト・ベーア――あるユダヤ人の運命』、『ティコ・ブラーエの神への道』、『ユダヤ人の王ロイベニ』 などがあります。「遺稿はすべて焼却してほしい」とカフカの遺稿を託されたブロートは、親友カフカの意に背き、遺稿をもって亡命。カフカの遺稿をもとに作品出版に手を尽くし、今日、カフカの文芸作品が世界中で読まれる礎を築いたことは周知の事実です。本邦初訳となる『ユダヤ人の女たち』は、1910年代チェコのギムナジウムに通うドイツ系ユダヤ人青年の恋愛と蹉跌を赤裸に描いた小説。カフカと過ごしたチェコスロヴァキアの風俗が描かれた、ブロートの自伝的小説になっています。
以下に公開するのは、マックス・ブロート『ユダヤ人の女たち』の翻訳者・中村寿さんによる「訳者解題」の一節です。
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マックス・ブロートとフランツ・カフカ
ブロートとカフカを結びつけたのは、なによりも文学への関心にある。ブロートはカフカが愛読した作家としてクライスト、ゲーテ、ホーフマンスタール、シュティフター、ヘーベル、ヘッベル、グリルパルツァーらを挙げた。いずれもドイツ文学を代表する作家であり、邦訳作品も少なからずある。カフカとブロートはともにドイツ文学の遺産の継承者であった。
ブロートはプラハのドイツ語作家サークルにカフカを招き入れた。その構成員の大多数をユダヤ人が占めていたことは、強調してもし過ぎることはないだろう。ブロートの招待を通じて、カフカはマルティン・ブーバー[01]、フランツ・ヴェルフェル[02]、オットー・ピック[03]、エルンスト・ヴァイス[04]、ヴィリー・ハース[05]、ルードルフ・フクス[06]、ルードヴィヒ・ハルト[07]らを知った。
ドイツ文学のほか、ブロートはカフカに影響を与えた作家としてフローベール、バルザックらを挙げた。そのほか彼らが共有した読書体験のなかには、ディケンズ、ドストエフスキー、トルストイの名が挙げられる。
ブロートとカフカは1902年の10月にはじめて出会った。ブロートはプラハ大学の法学部に入学したてのころで、一年上のカフカは二年生だった。カフカは1906年6月に法務博士の学位を得て修了、ブロートも一年後に同じ学位を取得して学業を終えた。在学中のブロートはカフカとそれほど親しくしていない。ブロートは就職してはじめて、カフカが文学を志していることを知ったほどである。
彼らはともに作家志望であったにもかかわらず、大学では法律を学び、公務員の道を選んだ。ブロートは郵政事務所に、カフカは民間の保険会社勤務を経て、労災保険局に入庁した。そんな彼らは文学を、実務によってされていない、かぎりなく純粋で神聖な営みだと認識していたことは次の記述から確認できる。
仕事は文学とは全く無縁のものでなければならない、なまじ文学と縁のある職業は、詩的な創造をはずかしめるものである、パンのための職業と文学とは厳密に区別されなければならない、と。カフカは、ジャーナリズムなどが見せているような両者の「混合」を拒否したのである[08]。
彼らが職業選択の際に重要視していたのは、勤務時間の短さだった。ボヘミア王国時代、役所は午前のみ開庁、午後は終業した。彼らは午後を創作や読書にあてようとした。
私たち二人が熱烈に求めていたのは、「半日出勤」の職場、—つまり、朝から午後二時あるいは三時までで〔…〕午後は自由という勤めである。〔…〕しかしわれわれが熱望した午後二時までの半日勤務ができる職場は実に少なかった。それもほとんど官庁で、しかも官庁といえば、もう当時から旧オーストリア国内ではよほどの縁故関係でもないかぎりユダヤ人にはむずかしかった。
カフカが一九一二年の九月二十二日深夜から翌日の未明にかけて『判決 Das Urteil』を一晩で書き上げたことは、カフカをめぐる伝説の一つとなっている。翌月に『失踪者 Der Verschollene』、十一月末から十二月初旬にかけて『変身 Die Verwandlung』が成立した。世界文学史に刻まれた記念碑的作品成立の背後にもブロートの存在があった。
カフカは公務員であると同時に、工場経営者でもあった。このいきさつは一番上の妹エリの結婚(1910年12月)にある。父親のヘルマン・カフカは彼女に多額の持参金を寄贈し、兄のフランツにも大金を贈った。実際のところ、兄妹への贈与は投資に用いられ、カフカは義弟のカール・ヘルマンと共同経営者としてアスベスト工場を開業することになった。義弟が開業資金を使い果たしたことで、カフカ家に不和が起こった。
カフカは工場監督により、執筆時間をさらに削らなければならなくなった。『失踪者』を執筆していたとき、カフカは、工場監督から受ける心労をブロートに打ち明けた。ブロートは彼の母親に、工場勤務を減らすように依頼している。文学に対するカフカの情熱は、家族には理解不能なものだったのだ。ブロートはカフカにとって家族以上の理解者だった。
ブロートが見守ったのは、カフカの職業生活だけではない。彼はカフカが恋愛をしているときにも傍らにいた。カフカの恋人には、二度の婚約とその破棄をしたフェリーツェ・バウアー、ミレナ・イェセンスカー、最後の恋人ドーラ・ディアマントらがいる。
カフカとフェリーツェは1912年8月、ブロートの両親宅で出会った。恋愛でも、役所への転職、家族とのトラブルを引き起こした問題が、改めて繰り返されることになった。問題とは、書くためには独りになれる時間が必要で、配偶者との共同生活は文学にとっての障害になるのではないかというカフカの懸念である。カフカは結婚をめぐるメリットとデメリットのバランスシートを作っていた。
以下はその抜粋である。
一 独りで生活に耐える能力がないこと。
三 ぼくは独りでいることを大いに必要としている。
五 結びつくことへの、向こう側へ流れてゆくことへの不安[09]。
結婚をためらわせたのは、新婚生活が文学にとっての妨げになるのではないかという不安だけではない。役所からの収入では、ゆとりある新婚生活を営むことは難しいのではないかという、経済状況に対する不安もあった。
ブロートはカフカを評価しなかった世間に対する遺憾を漏らしている。
彼のような物語の才能と作家としての天分においてまったく独自であった人物を、公文書の書きなぐりに終始せしめるようなことのない、そういう社会秩序があってもよさそうなものである。また、待ち望んでいる結婚とそれに伴う妻子への責任を考えると、彼は虚無とひどい絶望との前に置かれたような感じになったが、彼ほどのものをそういう気の毒な目にあわせなくてもすむようにしたいものである。
1914年5月末、カフカは結婚の意志を固めているが、七月に婚約を解消する。背景には、第一次大戦の勃発による社会の混乱もあった。
1916年から翌年にかけての冬が、カフカにとって実りの多い時期となった。三番目の妹オットラが兄の仕事場にと、小さな家を借りてくれたのだ。
この家で仕事をしている時期、カフカは再度結婚の意志を固め、プラハ市内で新居も探していた。1917年8月、カフカ。ブロートの勧めで医者の診察を受ける。保険局から療養休暇を取得し、チューラウ(現チェコのシジェム、ドイツ国境にほど近い農村)に滞在し、オットラの農場管理を手伝った。体を壊してようやく、カフカは都市生活の喧噪から離れることができた。そしてヘブライ語の学習を開始している。
クリスマスのころ、カフカは再度婚約を破棄した。ブロートはカフカが二度目の婚約破棄の報告に訪れたときのことを次のように書いている。
次の日の午前、フランツは私の事務所に立ち寄った。ちょっと休ませてくれ、と彼は言った。Fを駅まで送って来たところだった。彼の顔は蒼白で硬くこわばっている。かと思うと、たちまち彼はおいおい泣きだした。
カフカとフェリーツェの関係が終わりに近づいているころ、ミレナはドイツ語作家のサロンに近づき、ブロートと知り合った。1919年、ミレナはカフカの『火夫 Der Heizer』のチェコ語訳を発表するにいたる。翻訳をきっかけにカフカとミレナの関係が始まった。
1923年7月、カフカはバルト海沿岸のミューリッツ(ロストック郊外)に滞在、海水浴を楽しんだ。彼はここで最後の恋人ドーラと出会った。彼女はパビアニッツ(現ポーランド)生まれ、母語はイディッシュ語である。ベルリンのユダヤ民族ホーム(市民活動団体)で働き、ホームの夏期休暇旅行に調理担当として帯同していた。
カフカは9月にベルリンに移住、ドーラとの同居生活が始まる。危篤に陥り、ウィーン郊外のサナトリウムに入るまでのこの期間、カフカは「ユダヤ主義の科学のための大学〔Hochschule für die Wissenschaft des Judentums 公教育としての大学ではなく、市民向けにユダヤ主義に関わる講座を提供〕」に通い、ヘブライ語、タルムードを学んだ。カフカの指示にしたがい、ドーラが彼の原稿を焼却処分したのもこの時期のことである。
1924年3月、ブロートは危篤状態のカフカをプラハに連れて帰った。四月にカフカは喉頭結核の診断を受け、クロースターノイブルク郊外キーアリングのサナトリウムに入った。ブロートは5月中旬にカフカを見舞い、カフカからドーラとの結婚が彼女の父親から許可されなかったことを聞いている。
6月3日火曜日、カフカ死去。遺体はプラハに移され、6月11日、ユダヤ人墓地に埋葬された。ブロートは遺族とともに葬儀に参列した。
ブロートはカフカをモデルに二つ小説を書いている。『愛の魔境 Zauberreich der Liebe』(1928)と『シュテファン・ロットあるいは決断の年 Stefan Rott oder Das Jahr der Entscheidungen』(1931)がそれだ。『愛の魔境』は自伝小説である。主人公クリストフのモデルはブロート自身であり、その友人リヒャルト・ガルタのそれがカフカだった。
小説執筆時のことをブロートは次のように回顧している。
じっさい、私がこの書物、この仕事にひたって生きているかぎり、カフカは死んではいなかった、ふたたび彼は私と一緒に生き、ふたたび彼は私の生活に力強く喰い込んで来たのだ。
『シュテファン・ロット』は第一次大戦前のチェコの革命運動を描いた作品である。カフカはドイツ人(厳密に言うならば、ドイツ系のユダヤ人)であるのにもかかわらず、チェコ人の集会に出席していた。小説の舞台は集会の会場となった「青年集会所 Klub mladých」である。集会の雰囲気は本作『ユダヤ人の女たち』からも感じ取ることができる。
第一次大戦前のチェコでは、ドイツ人、チェコ人、そしてユダヤ人が互いに融解しながら対立していた。繰り返すが、戦間期と第二次大戦を経て、中東欧が国民国家体制に移行すると、民族の混合と対立から生み出される熱気はわれてしまった。小説を読むことは、過去への時間旅行に出かけることでもあるのだ。
[01]オーストリアのユダヤ主義哲学者(Martin Buber 1878‐1965)。代表作に『汝と我 Ich und Du』(1923)。ガリツィアのレンベルク(現ウクライナ)で青年期を過ごし、東欧のユダヤ主義に明るかった。一次大戦期、ユダヤ民族主義者としてドイツ、オーストリアのユダヤ人に東欧の文化を紹介した。その民族主義はテオドール・ヘルツルによるユダヤ人の政治的権利を求める政治シオニズムとは区別され、文化シオニズムと称されている。
[02]プラハ出身のドイツ語作家(Franz Werfel 1890‐1945)。処女作の詩集『世界の友 Der Weltfreund』(1911)は、表現主義の始まりを告げる作品として知られる。
[03]プラハ出身のドイツ語作家(Otto Pick 1887‐1940)。チェコ語作家オトカル・ブジェジナ、カレル・チャペックのドイツ語翻訳者として知られる。
[04]ブリュン(現チェコのブルノ)出身のドイツ語作家(Ernst Weiß 1882‐1940)。デビュー作の小説『ガレー船 Die Galeere』(1913)で注目された。亡命先のパリでナチスドイツ軍の進軍を目撃、自死した。
[05]プラハ出身の批評家(Willy Haas 1891‐1973)。1911年から翌年にかけてヘルダー協会の雑誌「ヘルダー・ブレッター Herder-Blätter」の編集を担当した。ナチス政権期にはインドに亡命、二次大戦後ドイツに戻り、「ヴェルト Die Welt」紙ほかでジャーナリストとして活動した。
[06]チェコのポディエブラディ出身、プラハで活動したドイツ語作家(Rudolf Fuchs 1890‐1942)。チェコの詩人ペトロ・ベズルチによる『シレジアの歌 Slezské písně』のドイツ語翻訳者として知られる。
[07]ドイツの俳優で朗読の名手(Ludwig Hardt 1886‐1947)。カフカはハルトによる自作の朗読を高く評価していた。
[08]マックス・ブロート『フランツ・カフカ』辻瑆、林部圭一、坂本明美訳、みすず書房、一九七二年、八八頁。以下、本書からの引用は(『カフカ』、頁数)として本文中の引用末に記す。
[09]フランツ・カフカ『カフカ全集七 日記』、谷口茂訳、新潮社、一九九二年、二二四‐二二五頁。以下、カフカの日記からの引用は(『日記』、頁数)として本文中の引用末に記す。
【目次 】
一 イレーネ
二 フーゴー
三 荘館
四 接近
五 ルーツィエ夫人
六 テニスコート
七 ボウリング
八 グレートル
九 蛇の踊り
十 病人を見舞う
十一 人民集会
十二 オルガ
十三 ちびのエルザ
十四 アイヒヴァルト
十五 別れ
あとがき 一九一八年
註
マックス・ブロート[1884–1968]年譜
訳者解題
【訳者略歴】
中村寿(なかむら・ひさし)
1977年、静岡県浜松市生まれ。秋田大学教育文化学部講師。静岡大学人文学部卒、静岡大学人文社会科学研究科修士課程修了、北海道大学文学研究科博士後期課程単位修得退学、博士 (文学) 。専門はドイツ文学・ユダヤ人研究。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、マックス・ブロート『ユダヤ人の女たち』をご覧ください。