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主知主義と主意主義:人生のコントロールに関する話


主知主義と主意主義とは何か

主知主義と主意主義という、2つの考え方がある。主知主義とは、知性や理性を重視する考え方とされる。一方で主意主義は、意思をより上位に置く考え方である。

主知主義を自分の人生において徹底してしまうと苦しくなる

主知主義的に世の中を捉えるということは、人間の持っている知性や理性を軸に世の中が成立しているべき、という考え方を取るということに繋がる。西洋哲学の歴史においては、長きにわたり、人間には理性があり、その理性を正しく用いれば世界の真理を理解することができるはず、という考え方があった。この考え方を軸とするならば、社会は人間の持つ理性に沿って運営されることが理想となる。それはつまり、あえて単純化して言えば合理的で論理的に説明される社会だということだ。

主知主義的に社会を捉えて、より理想的な形に近づけていくということ自体は、多くの人が賛同する考え方だろう。しかし、自分の人生で主知主義を徹底してしまうと苦しくなる。自分の過ごしている環境が合理的ではない、もっと簡単に言えば「良い環境ではない」場合には、自分の人生も良くないものとして捉えてしまうことになるからだ。

この世に、「理性が徹底され、理想が実現されている社会」など存在しない。そして、自分だけが理性を徹底するということもできない。理性というものは「客観的なモノサシ」であり、自分だけがそのモノサシを持っていても意味がなく、皆が同じモノサシを持てていて、そのモノサシに沿って動いていることが重要だからだ。自分1人だけが「客観的である」なんてことは成立しない。

主意主義を適度に取り入れると、自分の人生をコントロールしやすくなる

一方で、主意主義的に世の中を捉えるということは、「自分次第で世の中は変わる」という考え方を持つということだ。極論すると、社会が理性的に運営されているかどうかは自分の人生には関係がない。

もちろん、主知主義的に人生を生きている人にとっても、社会が理性的に運営されていた方がよいだろう。犯罪は少ない方が良いし、差別が起きない方が良い。しかし、そういった世の中が実現されているかどうか、どの程度実現されているかどうかは、主意主義的に世の中を捉えている人にとっては「最も重要な軸」ではない。

これはつまり、「自分ではコントロールが困難な変数」を外部化し、「自分でコントロールしやすい変数」を内部化する、ということである。コントロール外の範囲で起きていることは色々ある。しかし、それをどのように捉え、どのように対処し、人生を構築していくかは「自分の意志」次第だ。

主知主義も、主意主義も、どちらも重要な考え方である。しかし、楽しく腎性を生きる上では、主知主義を徹底するのではなく、主意主義を適度に取り入れることがポイントになる。

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