〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事
こんにちは。リオ / Rioです。
先日は、「〈動物の命〉BSEや鳥インフルエンザ等を患った動物達の殺処分について感じること」というテーマを基に記事を書かせていただきました。一番初めの自己紹介でも書かせていただいたのですが、特に扱うトピックのジャンルやカテゴリーなどは関係なく、自分がふと「書きたいな」と思ったことを書こうと思っています。 「前回に引き続き動物の命系かよ、重い重い・・・」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、前回扱ったトピックからの派生で、「これも書きたいな」と純粋に思ったので、今回はこのテーマを扱いたいと思います。 「動物系しか扱いませんよ」、「命とか重い系しか書かないですよ」というわけでは全くありませんのご安心を(笑) では今回は、「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」について書いていきたいと思います。 よろしくお願いいたします。
皆さんは日常生活を送る中で、車やバイクに轢かれてしまった動物が道路に横たわっているのを見たことがあるでしょうか? 私自身は田舎県出身の車社会であったため、そういった光景は小さい頃から割と目にしていました。私は小さい頃からおじいちゃん・おばあちゃん子で、よく母に連れられ車で祖父母の家に遊びに行くことがありました。その移動中の道路に、「轢かれてしまった動物の姿」が横たわっているのを幾度も目にしたことがあります。それは、「外傷もなく、外見的には綺麗なもの」もあれば、「一瞬でも目を向けることさえ難しい」と思わされてしまう程のものもありました。 その際、子供ながらに思ったことがありました。
「もしこの轢かれてしまった動物達が人間だったら、どれだけ軽傷だろうと重症だろうと救急車をすぐに呼んで運ばれて治療されるはずなのに、どうして動物には同じことをしないのだろう?それに、人間だったら死んでしまったその遺体をそのまま道路の上に放置した状態になんて絶対にしないだろう・・・」という感情でした。 轢かれて亡くなってしまった動物の現場を見た次の日には、その姿が現場から消えていることもあれば、数日間同じ場所にあり続ける事もありました。私がまだ幼稚園児だった頃、同じ現場に事故に遭ってしまった動物の姿が数日間変わらずにあり続けたことがありました。
「ずっと同じ場所にいたらかわいそう!車にまた轢かれちゃうよ!」と母によく言っていたのを覚えています。
私が母にそう言うと、「ちゃんと連絡する所があってね。誰かがそこに連絡してくれたらこの子も大丈夫になるから。」と言われたのを覚えています。 当時はその「誰かが」という部分に何となくの違和感を感じたのを覚えていますが、実際に長くても2日か3日経てば、そういった現場から動物の姿がなくなっているのを目の当たりにしてきたため、いつしか「そっか。数日経てば '誰かが何とかしてくれるんだ' 」という意識を持ってしまっていた自分がいました。 この部分に関してはまた後で触れていきたいと思います。この部分もまた私にとっての「伝えたい事」です。
話を戻しましょう。 例えば目の前で人が車に轢かれたとします。皆さんはどうしますか? おそらく多くの人が、「すぐに駆け寄り、身を案じ、救急車を呼ぶ」という選択を取ると思います。 しかし、「目の前で '動物' が車に轢かれたの見た」としたらどうするでしょうか?人が轢かれた時と全く同じ行動や対応、もっと言えば「同じ心情」で「即座に」行動を起こせる人がどれだけいるでしょうか? 決して多くはない様に感じます。 「人間が轢かれてしまった場合」でさえ、「すぐに行動を起こせる人」と「そうでない人」とに分かれると思います。 おそらく「人間が轢かれた場合」と同じ対応が出来ない理由はこんな感じの思いがあるからではないでしょうか。 「あぁ・・動物か・・・」、「野良猫 (野良犬)っぽいししょうがないだろ・・・」、「別に車を止めて駆け寄る程でもないかな・・」、「助けたところでどうする・・?」、「急いでるし、動物を助けてましたという言い訳で遅刻は出来ない」、「助けたとしても保険はきかないし治療費が高くつきそう・・・」など、様々な考えを一瞬にして思い浮かべるのではないでしょうか? ここで私が言いたいのは、決して「こういった感情を持ってしまう人は酷い」ということではありません。また、「自分はそうはしない人間だ」という主張をしたいわけでもありません。これらの感情は十二分に理解できる感情ですし、時と場合、また自身の経済状況によっては「助ける」という選択肢を取れないことの方が多いでしょう。
ここで1つ、私の経験談をお話したいと思います。これは決して美談としてお話するわけではありません。ここにあるのは純粋な「後悔の念」です。
私自身これまで生きてきて一度だけ、「まさに目の前で猫が車に轢かれてしまった瞬間」に遭遇したことがあります。場所は交通量の多い大きな道路でした。その時はバイクに乗っていたのですが、居ても立ってもいられずバイクを脇に止め、猫の元に駆け寄ったことがあります。何より、確かにその猫は車に跳ねられはしたのですが、ぎこちない歩き方になりつつもその後少しだけ歩けていたことから、「もしかしたら救える命かもしれない」と思ったこと。そして、その猫は何とか少しの距離は歩けてはいたものの、最終的には横たわってしまい、その場所が交通量の激しい道路の真ん中であったことから、「このままでは車に轢かれ続け酷い姿になってしまう・・・」と瞬時に思ったことからでした。
すぐに駆け寄りその猫を抱きかかえた際には、その猫はまだ生きていました。体も温かく、そっと抱えただけで毛並みの良さや体の清潔感も感じられたことから、「もしかしたら飼い猫なのかもしれない」と思ったのを今でも覚えています。しかし、猫を抱え安全な道の脇に移動させる途中で、猫の体の力が一気に抜けていき、体全体が伸びていくのを感じました。瞬間的に焦り、「大丈夫!?」と声をかけ猫の目を見たのですが、その瞬間、「目の光」がスー・・・っと消えていくのが分かりました。これは実際に見たことがあったり経験のある方でないと分からないと思うのですが、分かりやすく言うと「漫画などで人が亡くなるシーン」があると思います。そういったシーンの表現で、「眼の光が無くなり暗くなる」といった様な表現方法がありますが、まさにそれそのものでした。 「あ・・眼の光が消えていく・・。もしかしてこれが命が完全になくなっていってしまう瞬間なのかな・・・」なんてことを瞬間的に感じました。猫の体に外傷は一切なく、本当に綺麗な体をしていたのですが、「全く動かない」という現実に対して、その光景があまりにも現実味がなかったのを覚えています。
この経験から生まれた後悔が2つあります。 1つは、「その猫を病院に連れて行こうと瞬間的に思えなかったこと。また、実際に連れて行かなかったこと」です。私は医学に精通しているわけではありませんし、素人レベルの医療関係の知識もない人間です。そんな人間が、「この猫の命は完全になくなってしまった・・・」と勝手に判断を下し、その命を諦めたわけです。いつ振り返ってみても、「果たしてあれは本当にそうだったのかな・・・」ということを今でも考えさせられます。もしかしたら外傷はなかったし、一時的な心肺停止状態にあっただけで、すぐに動物病院に連れて行けば命を吹き返したかもしれません。また、外傷がなかったことから勝手に、「多分内蔵をやられてしまったのだろう・・。内臓をやられてしまうともう助からないと聞く・・。これはもう助からないのだろうな・・・」と思ってしまった自分もいました。
しかしここで絶対的に言えることは、この猫が「人間」だったら私は違う行動を起こしていただろうということです。 勝手に自分の判断で、「この人には外傷がないことを考えても内臓をやられてしまっている。だからもう助からないだろう・・・」、「眼の光が消え完全に動かなくなってしまった・・。既に死んでしまったに違いない・・・」とは思わないはずです。そうは感じるかもしれませんが、まずは即座に救急車を呼び、医療のスペシャリスト達に頼ったはずです。
ここに自分自身の中に、同じ状況下においても「自分が '動物' に対して向けるもの」 と、「自分が '人間' に対して向けるもの」 とで、その「感覚」に「明確な差」があることに気付かされました。もっと強い表現をするならば 、「差別的な感覚がある 」ということを自覚し、それを認識せざるを得ませんでした。 この件で、「自分自身に対して物凄い罪悪感を感じ、自分を追い詰めてしまった・・・」という様な、良くも悪くも行き過ぎた自責の念に捕らわれることはありませんでしたが、同時に「こういった感覚を持っている自分って何なんだろう・・・」と、何とも納得し難く、悲しく、腑に落ちない感覚が今もあります。 これが1つ目の後悔です。
そしてもう1つの後悔は、その轢かれてしまった猫を歩行者用の道の脇に移動させた後、そのまま放置してしまった事です。歩道に則して草木が植えられている、ちょっとした花壇がある歩行者用の道を皆さんも一度は見たことがあるかと思います。そこに移動させ、その後は市役所へ連絡もせず数日を経過させてしまいました。これが2つ目の後悔です。
ここで冒頭に出てきた「母の話」の、「ちゃんと連絡する所があってね。誰かがそこに連絡してくれたらこの子も大丈夫になるから。」と言われ、その「誰か」という部分に違和感を感じた。という所に繋がります。
その移動させた場所は花壇の上で、歩行者の邪魔にはならず、かといって誰もその猫に気付かないような場所ではありませんでした。私が知る限り、ある一定量の歩行者が毎日その歩道を利用しているのを知っていたからです。そこに移動させた意図としては、「猫を移動させたはいいが、用事がある途中だったためもう行かなければならない。ここなら車に轢かれることもない。」、「歩行者も割と通るし、気付いた '誰か' が市役所に連絡してくれるはずだ」という考え。悪く言うと思惑がありました。また、その歩道の近くの事故現場の大きな車道は私自身毎日通っていたことから、運転しながらでもその歩道を確認できるため、その猫を市役所の方が見つけてくれたかどうかも確認できるような位置関係にありました。 「次の日には猫の姿はいなくなっているのを確認できるはずだ」と安易に考えて。 しかし、その猫の姿は数日間同じ場所にあり続けました。その出来事の次の日も、「あれ・・?まだいる・・きっと誰かが連絡してくれる・・」。しかしその次の日も、「あれ・・?まだいるのか・・・どうして誰も見つけてくれないんだろう・・・。絶対誰かが気付いているはずなのに・・」。そして次の日・・・。また次の日・・・。と4日程経ったと思います。そこで気付きました。
「誰かではなく、自分がやらなければいけない」のだと。
今思えば当たり前のことです。当然のことです。しかし、過去の母の教えのせいにするわけではありませんが、「こういった状況の時、誰かしらが市役所に連絡して、結果的に解決してくれていた」という幼少期の実体験があり、それを鵜呑みにし、「自分で何とかする」という選択肢を放棄していることにこの時まで気付かなかったのです。
「自分は何て愚かだったんだ・・・」とこの時悟りました。
この猫が人間であったなら、「安全な場所に移動させたからもう安心。誰かが見つけて連絡してくれるのを待とう」なんてことは絶対にしません。そう思いすらしないはずです。同時に、自分のしていることが命への冒涜であることにも気付きました。 すぐさま市役所の連絡先を調べ電話し、場所の詳細を説明しました。しかし、ここで少し余談ではあるのですが、その現場がたまたま「○○市」と「△△市」の微妙な境目辺りであったため、一番初めに連絡した○○市の市役所の方には、「あぁ、そこは△△市の管轄ですね。△△市の市役所にかけ直してください。」と言われたことを覚えています。 猫を歩道に移動させ、何日もの間何もせず放置していた私にこんな事を言う権利はありませんが、「そんな微妙なエリアの違いなんてはどっちでもいいのに・・。命が亡くなってしまったとしても、数日前まで生きていた '生き物の体' がそこにはあるんだから・・・」と思ったのを覚えています。これが私の2つ目の後悔です。
これら2つの後悔を通して言える1つのことは、「相手がもし動物ではなく人間だったら、同じ対応は絶対にしていない」という事です。 こういった感覚を持ってしまっている自分がいることに、「寂しさと悲しさと悔しさ」を感じました。 この出来事を経験して教訓を得たことにより、自分が事故に遭ってしまった動物を見つけた際には必ず自分が役所に連絡するようにしています。 (*)この記事を書いていて調べたところ、国土交通省が提供する「道路緊急ダイヤル(#9910)」というものがあるようです。私の場合は、「市役所⇒担当の部署に繋いでもらう」という手段しか知らずに上述の方法を取りましたが、こちらを利用するのが一番の様です。場所による「管轄違い」の問題を心配することなく、全ての道路において対応していただける様です。
以上、今回のテーマである「〈動物の命〉動物の交通事故現場を通して感じる事」についてお話させていただきました。 今回はたまたま自身の実体験から、猫のトピックに基づいてお話をさせていただきましたが、その対象が仮に「植物」でも、「昆虫」でも、「魚」でも、「変わらない。変わってはいけない」と感じています。 「道端を歩いていたら足元に小さな虫がいた」、「花が咲いていた」。そんな時に何の躊躇もなく軽い気持ちで踏み潰そうとする人もいるでしょう。一方でそれを見ても何とも思わない人もいれば、はたまたそれらを「尊いもの」だと慈しみ、そっと踏まない様に避け見届ける人もいるはずです。
一体どれが「人として在るべき姿」でしょうか?
植物でも、昆虫でも、魚でも、動物でも、人間でも、そのどれもが1つの生物であることに変わりはありません。本来そこには上も下もないはずです。その一つ一つには宿した命があり、どんな最期を迎えようと、1つの一生を終えたからには蔑まれていい命なんてないと思います。
尊いものとして扱われるべきです。
こんなことを言うと宗教じみた説教のように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、純粋にそう感じます。(ちなみに私は特に宗教はやっていません)
現段階の地球上において、「自分たちの意図することは何でも出来てしまう生物」は人間だけだと考えています。理由は、人間は他の動植物に比べ知能が高く、自由に動くことができ、知識や技術があります。「物理的な観点において、人間は必要な物を現実に生み出すことが出来る、他の動植物にはない '力' がある」からです。 それらの知識や技術を用いて人に手を差し伸べ救うことも出来れば、その逆の選択肢を取ることだって出来ます。今回のケースの様に、動物自身ではどうしようもない状況下になったとしても、人間が手を差し伸べ、車で運び、治療をすれば命を繋ぐことが出来る可能性も生まれます。 しかし、そこに「損得勘定、お金、見返り、差別、自分本位な思考」などといった、様々な人間固有の思想や概念が加わることにより、「本来の在るべき人の姿」からは大きく遠のいてしまっている様に感じます。 それは裏を返せば、「人間さえそのつもりになれば、'種族を超えたどんな支え合い' も可能」だといういう事です。しかしそれには「心」が重要になってくると感じます。そういったことを何の躊躇いもなく自然に出来てしまう「精神性」とでも言うのでしょうか。
もし全ての人間が本質的に、「人の命も、人間以外の全ての命も '平等・対等' である」と心から思える日が来たならば、きっと世界は愛に溢れ、「争い・対立・差別・憎しみ・無関心」などという概念とは無縁の世界になるのではないでしょうか。 究極的には、他種族の全ての生物や物質に対しても「慈愛の心」を持ち、まるで自分の大切な家族や恋人に接するかの様な「愛おしさ」を持ってあらゆるものに触れていくことが出来る気がします。
「自分とは違う種族だから」、「違う生物だから」と、そこに「偏見や差別、上下関係という名の線引き」を行うのではなく、どんなものに対しても「平等性・対等性・慈しみ・敬意」を持って相対する精神性を持てること程、「愛おしく、尊いものは無い」と私は感じます。